今まで数多くの山城に登ってきましたが、この城の一の曲輪からの眺めは間違いなくトップクラスの絶景です! 老体に鞭打ってここまで来た甲斐がありました(笑)。まず会津盆地の南端に位置している事もあり、広大な盆地と会津の市街全てが見渡せます。はるか北には雄々しい飯豊連峰がそびえ立ち、盆地東端には鶴ヶ城の天守も望めます。
せっかく登って来ても、草木が生い茂り山頂から何にも見えない・・というのは山城あるある事例ですが、ここの場合は山頂周辺の樹木は切り払われて見通しが素晴らしく、地元の方々の努力にただ感謝!感謝です。
こうやって眺めると鶴ヶ城は、確かに東側に寄り過ぎですね(笑)。実は豊臣政権時代に上越から会津に国替になった上杉景勝が、鶴ヶ城は東の山塊に近過ぎて砲撃を受ける恐れがあり、街の均衡ある発展上も問題があるとして、新たに盆地中央に「神指城」を築いて本拠地を移そうとした事があるのですよ。阿賀川沿いにある跡地もぼんやりとですが、ここから分かります。
結局、コレは謀反だと徳川家康が築城に難癖をつけ、関ヶ原の戦いの原因になったため未完に終わってしまうのですが・・。もし完成していたら会津は現在と全く違った街並みになっていたでしょうね。 鶴ヶ城を観光した時は「こんなに大きくて立派な城があるのに、多額の費用をかけて移転しなくとも」と思いましたが、はるかな後年、戊辰戦争の際に鶴ヶ城はアームストロング砲の標的になってしまうので、景勝公の方が先見の明があったのでしょう(笑)。
この山城は1568年に蘆名盛氏が築いたとされています。ちょうど織田信長が上洛を開始した年です。後から会津に入った伊達政宗、蒲生氏郷、上杉景勝が有名すぎるせいで今一つ知名度が低いですが、この盛氏も周辺を斬り従えて100万石とも言われる領土を手にし、会津発展の基礎を築いた稀代の英雄です。 しかも蘆名家は、源頼朝の幕府創業を助けた重臣「三浦義明」の七男が会津に領土を与えられて以来の家系、と言うので鎌倉時代からの古い名門です。今出来の織田信長とは毛色が違います(笑)...
Read more会津本郷にある白鳳三山(観音山・羽黒山・岩崎山)のうち、最高峰にして向羽黒山の異称を持つ岩崎山に蘆名盛氏が築かせた隠居城で、東日本最大級ともされる中世山城です。嫡子の盛興に家督を継がせ、蘆名氏代々の本城である黒川城(後の若松城)を退去した盛氏ですが、黒川城を彼方に見下ろす堅城に居を定めたことからも察しがつく通り、実権を手放すつもりはかけらもありませんでした。盛興が男子を残さずに急逝し、養子の盛隆を新たな後継者と定めた後もその点は変わらず、向羽黒山城から家中の統制と勢力拡大の指揮を執り続けます。清和源氏に連なる名門にして常陸の戦国大名として勇名を馳せた佐竹義重、米沢を拠点として急速に勢力を拡大した伊達輝宗とも互角に渡り合ったものの、後継者への権力移譲がうまくいかず、盛氏の死後に蘆名家中は混乱します。盛隆が寵臣の大庭三左衛門に惨殺されるに至って、蘆名氏の衰亡は決定的となります。盛氏の失敗を教訓に、佐竹義重は子の義宣に、伊達輝宗は子の政宗への権力移譲を急ぎます。そしてその政宗に攻められて、桓武平氏に連なる名族として長らく会津を治めていた蘆名氏は、常陸の佐竹氏の元に落ちのびます。会津への復帰を嘆願したものの、豊臣秀吉からも徳川家康からも顧みられることなく、会津の府たる若松城の主が蒲生氏、上杉氏、加藤氏と変遷するうちに、「そうはならんやろ」と言いたくなるような不幸が相次いで蘆名氏の血統は途絶えます。庇護者たる佐竹氏が関ケ原の敗戦の責を負い秋田に転封されたため、佐竹氏終焉の地も秋田の角館となり、会津に残された蘆名氏関連の史跡は数えるほどしかありません。向羽黒山城は蒲生氏、上杉氏の時代に若松城の支城として再整備されたものの、上杉氏が米沢に転封された後に廃城となりました。若松城も築城の名手であった蒲生氏郷による全面改修によって、蘆名氏時代の痕跡はほとんどありません。 会津においても忘れられつつある蘆名氏ですが、向羽黒山城の壮大な縄張からは往事の繁栄を容易に想像できます。三の曲輪は練兵の場で、あえて平場とはせず起伏が保たれています。二の曲輪は政務の場であると共に城主盛氏の生活の場であり、一の曲輪には統治の象徴たる建物があったとされています。一の曲輪と二の曲輪は平坦に整えられていますが、周辺にある防衛上の工夫の数々に興味をそそられます。ただ、見どころの数々は遊歩道に立ち入らないと確認できず、見どころそのものには大きな看板が設置されているものの、見どころに至るまでの案内がいささか不親切に感じられました。この点につきましては改善を望みます。 白鳳三山一帯は公園として整備されていて、北側の麓には向羽黒山城整備資料館があります。そこから観音寺跡のある観音山、羽黒山神社のある羽黒山を経て城址のある岩崎さんに向かうことになります。観音山、羽黒山にはこれぞと言うほどの見どころはないものの、山頂からの見晴らしは良いので立ち寄って損はありません。 史跡・観光地としては整備が十分でない面はあるものの、...
Read more絶景です!石積、空堀がまだまだ見つかって居ます。何程の規模?紅葉も進み、恰も錦絵の如し。嗚呼、宜なるかな、強者共の夢の跡。 落葉した城跡は、寒々し、昔日の争乱が嘘のやうです。しかしよく見渡せる。其処も此処も。だから、山城は面白い。 寒風吹きずさむ山城を、西側より望む。冷気が雲を呼び、雲海が、漂容す。
2018年7月、草刈りも順調に進行。熊にも出来合わさない。ただ暑さに閉口、観光客も俄然増加。百聞は一見に如かず。ヘビもスズメバチにも遇わない。 2018年12月、初冠雪の桜並木がまるで樹氷のやうに、神々しさを現している。静寂閑雅として戦国の遥か彼方に夢を馳せる。来年は何を見せてくれるのか?止めを知らず❗️
令和元年、矢張り色々見つかって来ました。時代が若くなりますが、大変興味深い!この山城は、地元民にとって何だったのか?もっと情報を……!
7月29日,本格的な草刈り!植生に変化が見られる。写真明日アップ!非常に興味深い!安易な結論は方向を誤つ。熊も猪も!
8月2日、真っ盛りの草刈り。矢張、今年は、変!異様な姥百合が異常に繁茂、背高は2㍍、茎は10㌢。作業に難渋している。山百合が見えない!
11月26日朝2℃日中11℃、二の曲輪の竪堀の延長を刈り払い、伐採を実施。日差しが柔らかい!これで発掘も御仕舞い。土曜日のバスで(広島から30人)、ガイドも最終戦。
令和3年今期発掘!この界隈は不思議なもの、謎のものが...
Read more