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Mukaihaguroyama Castle Ruins — Attraction in Aizumisato

Name
Mukaihaguroyama Castle Ruins
Description
Mukaihaguroyama Castle, also known as Iwasaki Castle, was an Edo period Japanese castle located in the town of Aizumisato, southern Fukushima Prefecture, Japan. The site has been protected by the central government as a National Historic Site since 2001. It is ranked as one of the five largest Sengoku period yamashiro
Nearby attractions
Hongo Onsen Yutori
Ko-4106-1 Muikamachi, Aizumisato, Onuma District, Fukushima 969-6059, Japan
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Seseragi Park Auto Camping Ground
Ko-4224-2 Iehigashi, 字 Aizumisato, Onuma District, Fukushima 969-6112, Japan
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Mukaihaguroyama Castle Ruins
JapanFukushima PrefectureAizumisatoMukaihaguroyama Castle Ruins

Basic Info

Mukaihaguroyama Castle Ruins

Funaba, Aizumisato, Onuma District, Fukushima 969-6133, Japan
4.1(149)
Open 24 hours
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spot

Ratings & Description

Info

Mukaihaguroyama Castle, also known as Iwasaki Castle, was an Edo period Japanese castle located in the town of Aizumisato, southern Fukushima Prefecture, Japan. The site has been protected by the central government as a National Historic Site since 2001. It is ranked as one of the five largest Sengoku period yamashiro

Cultural
Outdoor
Scenic
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attractions: Hongo Onsen Yutori, restaurants:
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3.7

(251)

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Experience at Toyokuni Sake Brewery
Sake tasting & brewery tour
Experience at Toyokuni Sake Brewery Sake tasting & brewery tour
Mon, Jan 5 • 9:00 AM
969-6536, Fukushima, Aizubange, Kawanuma District, Japan
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ヤマ田太郎ヤマ田太郎
今まで数多くの山城に登ってきましたが、この城の一の曲輪からの眺めは間違いなくトップクラスの絶景です! 老体に鞭打ってここまで来た甲斐がありました(笑)。まず会津盆地の南端に位置している事もあり、広大な盆地と会津の市街全てが見渡せます。はるか北には雄々しい飯豊連峰がそびえ立ち、盆地東端には鶴ヶ城の天守も望めます。 せっかく登って来ても、草木が生い茂り山頂から何にも見えない・・というのは山城あるある事例ですが、ここの場合は山頂周辺の樹木は切り払われて見通しが素晴らしく、地元の方々の努力にただ感謝!感謝です。 こうやって眺めると鶴ヶ城は、確かに東側に寄り過ぎですね(笑)。実は豊臣政権時代に上越から会津に国替になった上杉景勝が、鶴ヶ城は東の山塊に近過ぎて砲撃を受ける恐れがあり、街の均衡ある発展上も問題があるとして、新たに盆地中央に「神指城」を築いて本拠地を移そうとした事があるのですよ。阿賀川沿いにある跡地もぼんやりとですが、ここから分かります。 結局、コレは謀反だと徳川家康が築城に難癖をつけ、関ヶ原の戦いの原因になったため未完に終わってしまうのですが・・。もし完成していたら会津は現在と全く違った街並みになっていたでしょうね。 鶴ヶ城を観光した時は「こんなに大きくて立派な城があるのに、多額の費用をかけて移転しなくとも」と思いましたが、はるかな後年、戊辰戦争の際に鶴ヶ城はアームストロング砲の標的になってしまうので、景勝公の方が先見の明があったのでしょう(笑)。 この山城は1568年に蘆名盛氏が築いたとされています。ちょうど織田信長が上洛を開始した年です。後から会津に入った伊達政宗、蒲生氏郷、上杉景勝が有名すぎるせいで今一つ知名度が低いですが、この盛氏も周辺を斬り従えて100万石とも言われる領土を手にし、会津発展の基礎を築いた稀代の英雄です。 しかも蘆名家は、源頼朝の幕府創業を助けた重臣「三浦義明」の七男が会津に領土を与えられて以来の家系、と言うので鎌倉時代からの古い名門です。今出来の織田信長とは毛色が違います(笑) 十分に大河ドラマの主役を張れる人物と思いますがどうでしょうか。 白河街道、二本松街道を抑える東の鶴ヶ城に対して、この向羽黒山城は大内宿を通って日光へと抜ける「会津西街道」と水運の要「阿賀川」を盆地の南側から睨みを利かせています。よって鶴ヶ城が整備後も地勢的重要性が失われることはありませんでした。 伊達政宗によって蘆名氏は追放されてしまいますが、その後も城の拡大強化は続けられていきます。 そのため時期的には蘆名氏当時は東北には無かった「食い違い虎口」等の防御攻撃施設が城には存在し、これは蒲生氏郷が関西から持ち込んだものと考えられています。 上杉氏時代には徳川家康の会津侵攻に備え、さらなる防御の強化がはかられますが、関ヶ原の敗北に伴い廃城となりました。 城自体の方ですが遺構は山全体に広がり全国最大級の規模があるそうで、とても一日では見きれるものではありません。延々とどこまでも土塁と空堀が続いています。一般の方は駐車場近くに登り口がある一の曲輪・二の曲輪を見るだけでも十分に、その雄大さを感じ取れると思います。 ワタシの場合は調子にのって、大部分を見て回ったので本当に疲れました(笑)。家康がもしここを攻めたとしたら、かなりシンドイ事になったでしょう。
七面鳥放浪記七面鳥放浪記
会津本郷にある白鳳三山(観音山・羽黒山・岩崎山)のうち、最高峰にして向羽黒山の異称を持つ岩崎山に蘆名盛氏が築かせた隠居城で、東日本最大級ともされる中世山城です。嫡子の盛興に家督を継がせ、蘆名氏代々の本城である黒川城(後の若松城)を退去した盛氏ですが、黒川城を彼方に見下ろす堅城に居を定めたことからも察しがつく通り、実権を手放すつもりはかけらもありませんでした。盛興が男子を残さずに急逝し、養子の盛隆を新たな後継者と定めた後もその点は変わらず、向羽黒山城から家中の統制と勢力拡大の指揮を執り続けます。清和源氏に連なる名門にして常陸の戦国大名として勇名を馳せた佐竹義重、米沢を拠点として急速に勢力を拡大した伊達輝宗とも互角に渡り合ったものの、後継者への権力移譲がうまくいかず、盛氏の死後に蘆名家中は混乱します。盛隆が寵臣の大庭三左衛門に惨殺されるに至って、蘆名氏の衰亡は決定的となります。盛氏の失敗を教訓に、佐竹義重は子の義宣に、伊達輝宗は子の政宗への権力移譲を急ぎます。そしてその政宗に攻められて、桓武平氏に連なる名族として長らく会津を治めていた蘆名氏は、常陸の佐竹氏の元に落ちのびます。会津への復帰を嘆願したものの、豊臣秀吉からも徳川家康からも顧みられることなく、会津の府たる若松城の主が蒲生氏、上杉氏、加藤氏と変遷するうちに、「そうはならんやろ」と言いたくなるような不幸が相次いで蘆名氏の血統は途絶えます。庇護者たる佐竹氏が関ケ原の敗戦の責を負い秋田に転封されたため、佐竹氏終焉の地も秋田の角館となり、会津に残された蘆名氏関連の史跡は数えるほどしかありません。向羽黒山城は蒲生氏、上杉氏の時代に若松城の支城として再整備されたものの、上杉氏が米沢に転封された後に廃城となりました。若松城も築城の名手であった蒲生氏郷による全面改修によって、蘆名氏時代の痕跡はほとんどありません。 会津においても忘れられつつある蘆名氏ですが、向羽黒山城の壮大な縄張からは往事の繁栄を容易に想像できます。三の曲輪は練兵の場で、あえて平場とはせず起伏が保たれています。二の曲輪は政務の場であると共に城主盛氏の生活の場であり、一の曲輪には統治の象徴たる建物があったとされています。一の曲輪と二の曲輪は平坦に整えられていますが、周辺にある防衛上の工夫の数々に興味をそそられます。ただ、見どころの数々は遊歩道に立ち入らないと確認できず、見どころそのものには大きな看板が設置されているものの、見どころに至るまでの案内がいささか不親切に感じられました。この点につきましては改善を望みます。 白鳳三山一帯は公園として整備されていて、北側の麓には向羽黒山城整備資料館があります。そこから観音寺跡のある観音山、羽黒山神社のある羽黒山を経て城址のある岩崎さんに向かうことになります。観音山、羽黒山にはこれぞと言うほどの見どころはないものの、山頂からの見晴らしは良いので立ち寄って損はありません。 史跡・観光地としては整備が十分でない面はあるものの、訪れて損のない名城です。
トレーズクシュリナーダトレーズクシュリナーダ
向羽黒山城は続日本百名城に認定されています。 向羽黒山城は標高408mの向羽黒山に展開された山城です。城域は広大で未整備の部分も多く全体像は判然としません。 上の方まで車で上がることができ、そこから一の曲輪まで比高60〜70m程度です。ここには尾根沿いに連郭式に郭が並んでます。豪快な規模の竪堀や堀切、虎口が見どころです。 駐車場から下側に展開する中城(二の曲輪)は見どころ満載です。複雑な構造に郭が展開し、その中を豪快な竪堀、堀切などが見られます。 ここには水の手や門跡、城道、土塁なども見られます。 西下側に展開する西曲輪群は藪化しており判然としませんでした。 麓近くにもいろいろ遺構があるようですが、時間の都合で見ることはできませんでした。 山頂やお茶屋場からの眺望は良く会津若松市内、鶴ヶ城や磐梯山なども一望できます。 ここは熊が出ることで有名ですので熊鈴は必須だと思います。当日は熊には遭遇しませんでしたが、カモシカの親子に遭遇しました。 向羽黒山城は他の城ではなかなか見ることができない規模の遺構や複雑な構造を楽しむことができます。一見の価値ありです。 向羽黒山城は葦名盛氏の隠居城として築かれたと伝わります。しかし、隠居城という規模ではありません。伊達氏との抗争が激化する頃大幅に改修されたと思われます。また後代、上杉景勝によって関ヶ原の戦い前頃にさらに大幅に改修されたとも言われています。
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今まで数多くの山城に登ってきましたが、この城の一の曲輪からの眺めは間違いなくトップクラスの絶景です! 老体に鞭打ってここまで来た甲斐がありました(笑)。まず会津盆地の南端に位置している事もあり、広大な盆地と会津の市街全てが見渡せます。はるか北には雄々しい飯豊連峰がそびえ立ち、盆地東端には鶴ヶ城の天守も望めます。 せっかく登って来ても、草木が生い茂り山頂から何にも見えない・・というのは山城あるある事例ですが、ここの場合は山頂周辺の樹木は切り払われて見通しが素晴らしく、地元の方々の努力にただ感謝!感謝です。 こうやって眺めると鶴ヶ城は、確かに東側に寄り過ぎですね(笑)。実は豊臣政権時代に上越から会津に国替になった上杉景勝が、鶴ヶ城は東の山塊に近過ぎて砲撃を受ける恐れがあり、街の均衡ある発展上も問題があるとして、新たに盆地中央に「神指城」を築いて本拠地を移そうとした事があるのですよ。阿賀川沿いにある跡地もぼんやりとですが、ここから分かります。 結局、コレは謀反だと徳川家康が築城に難癖をつけ、関ヶ原の戦いの原因になったため未完に終わってしまうのですが・・。もし完成していたら会津は現在と全く違った街並みになっていたでしょうね。 鶴ヶ城を観光した時は「こんなに大きくて立派な城があるのに、多額の費用をかけて移転しなくとも」と思いましたが、はるかな後年、戊辰戦争の際に鶴ヶ城はアームストロング砲の標的になってしまうので、景勝公の方が先見の明があったのでしょう(笑)。 この山城は1568年に蘆名盛氏が築いたとされています。ちょうど織田信長が上洛を開始した年です。後から会津に入った伊達政宗、蒲生氏郷、上杉景勝が有名すぎるせいで今一つ知名度が低いですが、この盛氏も周辺を斬り従えて100万石とも言われる領土を手にし、会津発展の基礎を築いた稀代の英雄です。 しかも蘆名家は、源頼朝の幕府創業を助けた重臣「三浦義明」の七男が会津に領土を与えられて以来の家系、と言うので鎌倉時代からの古い名門です。今出来の織田信長とは毛色が違います(笑) 十分に大河ドラマの主役を張れる人物と思いますがどうでしょうか。 白河街道、二本松街道を抑える東の鶴ヶ城に対して、この向羽黒山城は大内宿を通って日光へと抜ける「会津西街道」と水運の要「阿賀川」を盆地の南側から睨みを利かせています。よって鶴ヶ城が整備後も地勢的重要性が失われることはありませんでした。 伊達政宗によって蘆名氏は追放されてしまいますが、その後も城の拡大強化は続けられていきます。 そのため時期的には蘆名氏当時は東北には無かった「食い違い虎口」等の防御攻撃施設が城には存在し、これは蒲生氏郷が関西から持ち込んだものと考えられています。 上杉氏時代には徳川家康の会津侵攻に備え、さらなる防御の強化がはかられますが、関ヶ原の敗北に伴い廃城となりました。 城自体の方ですが遺構は山全体に広がり全国最大級の規模があるそうで、とても一日では見きれるものではありません。延々とどこまでも土塁と空堀が続いています。一般の方は駐車場近くに登り口がある一の曲輪・二の曲輪を見るだけでも十分に、その雄大さを感じ取れると思います。 ワタシの場合は調子にのって、大部分を見て回ったので本当に疲れました(笑)。家康がもしここを攻めたとしたら、かなりシンドイ事になったでしょう。
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会津本郷にある白鳳三山(観音山・羽黒山・岩崎山)のうち、最高峰にして向羽黒山の異称を持つ岩崎山に蘆名盛氏が築かせた隠居城で、東日本最大級ともされる中世山城です。嫡子の盛興に家督を継がせ、蘆名氏代々の本城である黒川城(後の若松城)を退去した盛氏ですが、黒川城を彼方に見下ろす堅城に居を定めたことからも察しがつく通り、実権を手放すつもりはかけらもありませんでした。盛興が男子を残さずに急逝し、養子の盛隆を新たな後継者と定めた後もその点は変わらず、向羽黒山城から家中の統制と勢力拡大の指揮を執り続けます。清和源氏に連なる名門にして常陸の戦国大名として勇名を馳せた佐竹義重、米沢を拠点として急速に勢力を拡大した伊達輝宗とも互角に渡り合ったものの、後継者への権力移譲がうまくいかず、盛氏の死後に蘆名家中は混乱します。盛隆が寵臣の大庭三左衛門に惨殺されるに至って、蘆名氏の衰亡は決定的となります。盛氏の失敗を教訓に、佐竹義重は子の義宣に、伊達輝宗は子の政宗への権力移譲を急ぎます。そしてその政宗に攻められて、桓武平氏に連なる名族として長らく会津を治めていた蘆名氏は、常陸の佐竹氏の元に落ちのびます。会津への復帰を嘆願したものの、豊臣秀吉からも徳川家康からも顧みられることなく、会津の府たる若松城の主が蒲生氏、上杉氏、加藤氏と変遷するうちに、「そうはならんやろ」と言いたくなるような不幸が相次いで蘆名氏の血統は途絶えます。庇護者たる佐竹氏が関ケ原の敗戦の責を負い秋田に転封されたため、佐竹氏終焉の地も秋田の角館となり、会津に残された蘆名氏関連の史跡は数えるほどしかありません。向羽黒山城は蒲生氏、上杉氏の時代に若松城の支城として再整備されたものの、上杉氏が米沢に転封された後に廃城となりました。若松城も築城の名手であった蒲生氏郷による全面改修によって、蘆名氏時代の痕跡はほとんどありません。 会津においても忘れられつつある蘆名氏ですが、向羽黒山城の壮大な縄張からは往事の繁栄を容易に想像できます。三の曲輪は練兵の場で、あえて平場とはせず起伏が保たれています。二の曲輪は政務の場であると共に城主盛氏の生活の場であり、一の曲輪には統治の象徴たる建物があったとされています。一の曲輪と二の曲輪は平坦に整えられていますが、周辺にある防衛上の工夫の数々に興味をそそられます。ただ、見どころの数々は遊歩道に立ち入らないと確認できず、見どころそのものには大きな看板が設置されているものの、見どころに至るまでの案内がいささか不親切に感じられました。この点につきましては改善を望みます。 白鳳三山一帯は公園として整備されていて、北側の麓には向羽黒山城整備資料館があります。そこから観音寺跡のある観音山、羽黒山神社のある羽黒山を経て城址のある岩崎さんに向かうことになります。観音山、羽黒山にはこれぞと言うほどの見どころはないものの、山頂からの見晴らしは良いので立ち寄って損はありません。 史跡・観光地としては整備が十分でない面はあるものの、訪れて損のない名城です。
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せっかく登って来ても、草木が生い茂り山頂から何にも見えない・・というのは山城あるある事例ですが、ここの場合は山頂周辺の樹木は切り払われて見通しが素晴らしく、地元の方々の努力にただ感謝!感謝です。

こうやって眺めると鶴ヶ城は、確かに東側に寄り過ぎですね(笑)。実は豊臣政権時代に上越から会津に国替になった上杉景勝が、鶴ヶ城は東の山塊に近過ぎて砲撃を受ける恐れがあり、街の均衡ある発展上も問題があるとして、新たに盆地中央に「神指城」を築いて本拠地を移そうとした事があるのですよ。阿賀川沿いにある跡地もぼんやりとですが、ここから分かります。

結局、コレは謀反だと徳川家康が築城に難癖をつけ、関ヶ原の戦いの原因になったため未完に終わってしまうのですが・・。もし完成していたら会津は現在と全く違った街並みになっていたでしょうね。 鶴ヶ城を観光した時は「こんなに大きくて立派な城があるのに、多額の費用をかけて移転しなくとも」と思いましたが、はるかな後年、戊辰戦争の際に鶴ヶ城はアームストロング砲の標的になってしまうので、景勝公の方が先見の明があったのでしょう(笑)。

この山城は1568年に蘆名盛氏が築いたとされています。ちょうど織田信長が上洛を開始した年です。後から会津に入った伊達政宗、蒲生氏郷、上杉景勝が有名すぎるせいで今一つ知名度が低いですが、この盛氏も周辺を斬り従えて100万石とも言われる領土を手にし、会津発展の基礎を築いた稀代の英雄です。 しかも蘆名家は、源頼朝の幕府創業を助けた重臣「三浦義明」の七男が会津に領土を与えられて以来の家系、と言うので鎌倉時代からの古い名門です。今出来の織田信長とは毛色が違います(笑)...

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会津本郷にある白鳳三山(観音山・羽黒山・岩崎山)のうち、最高峰にして向羽黒山の異称を持つ岩崎山に蘆名盛氏が築かせた隠居城で、東日本最大級ともされる中世山城です。嫡子の盛興に家督を継がせ、蘆名氏代々の本城である黒川城(後の若松城)を退去した盛氏ですが、黒川城を彼方に見下ろす堅城に居を定めたことからも察しがつく通り、実権を手放すつもりはかけらもありませんでした。盛興が男子を残さずに急逝し、養子の盛隆を新たな後継者と定めた後もその点は変わらず、向羽黒山城から家中の統制と勢力拡大の指揮を執り続けます。清和源氏に連なる名門にして常陸の戦国大名として勇名を馳せた佐竹義重、米沢を拠点として急速に勢力を拡大した伊達輝宗とも互角に渡り合ったものの、後継者への権力移譲がうまくいかず、盛氏の死後に蘆名家中は混乱します。盛隆が寵臣の大庭三左衛門に惨殺されるに至って、蘆名氏の衰亡は決定的となります。盛氏の失敗を教訓に、佐竹義重は子の義宣に、伊達輝宗は子の政宗への権力移譲を急ぎます。そしてその政宗に攻められて、桓武平氏に連なる名族として長らく会津を治めていた蘆名氏は、常陸の佐竹氏の元に落ちのびます。会津への復帰を嘆願したものの、豊臣秀吉からも徳川家康からも顧みられることなく、会津の府たる若松城の主が蒲生氏、上杉氏、加藤氏と変遷するうちに、「そうはならんやろ」と言いたくなるような不幸が相次いで蘆名氏の血統は途絶えます。庇護者たる佐竹氏が関ケ原の敗戦の責を負い秋田に転封されたため、佐竹氏終焉の地も秋田の角館となり、会津に残された蘆名氏関連の史跡は数えるほどしかありません。向羽黒山城は蒲生氏、上杉氏の時代に若松城の支城として再整備されたものの、上杉氏が米沢に転封された後に廃城となりました。若松城も築城の名手であった蒲生氏郷による全面改修によって、蘆名氏時代の痕跡はほとんどありません。 会津においても忘れられつつある蘆名氏ですが、向羽黒山城の壮大な縄張からは往事の繁栄を容易に想像できます。三の曲輪は練兵の場で、あえて平場とはせず起伏が保たれています。二の曲輪は政務の場であると共に城主盛氏の生活の場であり、一の曲輪には統治の象徴たる建物があったとされています。一の曲輪と二の曲輪は平坦に整えられていますが、周辺にある防衛上の工夫の数々に興味をそそられます。ただ、見どころの数々は遊歩道に立ち入らないと確認できず、見どころそのものには大きな看板が設置されているものの、見どころに至るまでの案内がいささか不親切に感じられました。この点につきましては改善を望みます。 白鳳三山一帯は公園として整備されていて、北側の麓には向羽黒山城整備資料館があります。そこから観音寺跡のある観音山、羽黒山神社のある羽黒山を経て城址のある岩崎さんに向かうことになります。観音山、羽黒山にはこれぞと言うほどの見どころはないものの、山頂からの見晴らしは良いので立ち寄って損はありません。 史跡・観光地としては整備が十分でない面はあるものの、...

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絶景です!石積、空堀がまだまだ見つかって居ます。何程の規模?紅葉も進み、恰も錦絵の如し。嗚呼、宜なるかな、強者共の夢の跡。 落葉した城跡は、寒々し、昔日の争乱が嘘のやうです。しかしよく見渡せる。其処も此処も。だから、山城は面白い。 寒風吹きずさむ山城を、西側より望む。冷気が雲を呼び、雲海が、漂容す。

2018年7月、草刈りも順調に進行。熊にも出来合わさない。ただ暑さに閉口、観光客も俄然増加。百聞は一見に如かず。ヘビもスズメバチにも遇わない。 2018年12月、初冠雪の桜並木がまるで樹氷のやうに、神々しさを現している。静寂閑雅として戦国の遥か彼方に夢を馳せる。来年は何を見せてくれるのか?止めを知らず❗️

令和元年、矢張り色々見つかって来ました。時代が若くなりますが、大変興味深い!この山城は、地元民にとって何だったのか?もっと情報を……!

7月29日,本格的な草刈り!植生に変化が見られる。写真明日アップ!非常に興味深い!安易な結論は方向を誤つ。熊も猪も!

8月2日、真っ盛りの草刈り。矢張、今年は、変!異様な姥百合が異常に繁茂、背高は2㍍、茎は10㌢。作業に難渋している。山百合が見えない!

11月26日朝2℃日中11℃、二の曲輪の竪堀の延長を刈り払い、伐採を実施。日差しが柔らかい!これで発掘も御仕舞い。土曜日のバスで(広島から30人)、ガイドも最終戦。

令和3年今期発掘!この界隈は不思議なもの、謎のものが...

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