蜂須賀城跡 蜂須賀正勝公生誕の地「蜂須賀城」 城跡の遺構は何もないが、蜂須賀正勝公の顕彰碑が建っておりすぐ横の蓮華寺は蜂須賀家の菩提寺で蜂須賀正勝・家政親子の位牌が安置されています。 【歴史】 蜂須賀氏は斯波氏の庶流とされ、鎌倉時代末期頃に尾張国守護斯波義重に従って蜂須賀郷に入った。 その後斯波氏は衰退し蜂須賀正利の時代になると美濃国の斎藤道三に従います。正利が死去すると嫡子蜂須賀正勝(蜂須賀小六)は蜂須賀城を出て斎藤道三の近侍となりました。 これは、敵対した織田信秀によって蜂須賀城を奪われたともされ、母の安井御前の実家宮後城へ逃れたと考えられます。 その後蜂須賀正勝は、木下秀吉に協力するようになり墨俣城の築城に貢献するなどし後世に名を残しました。
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Read more☆城址らしい遺構や面影は全く無し❗️ 敷地内に「蜂須賀小六正勝公顕彰碑」🪦 ここが阿波国徳島藩『藩主/蜂須賀家』の発祥地✨ 城と言うよりも室町~戦国時代初期に有りがちな国人(在地領主)特有の『方形館』⁉️
☆羽柴秀吉の参謀で有名なのは竹中半兵衛と黒田官兵衛の「二兵衛」またを「両兵衛」の二人の軍師⚔️ 本当に腹心の心を置ける相棒は蜂須賀小六、何時でも大事な時の調停役に交渉役に留守居役、阿波国17万石を断り嫡子/家政に、自分自身は最後まで大坂の秀吉の側に仕え波瀾万丈の一生を全う、いぶし銀の立ち回り、蜂須賀小六の存在なしでは羽柴秀吉の立...
Read more蜂須賀城は、蜂須賀小六正勝の生誕の地で、蜂須賀家は織田家に仕えていたが信秀の代にこの地を逐われたとも言われ、母の実家がある丹羽郡宮後村(現江南市宮後町)に移ったとされています。徳島城主の蜂須賀家政は、ここ蜂須賀城で誕生と言われているが、宮後城の跡にも家政公生誕碑があり定かでありません。蜂須賀小六は、野武士(野伏)の頭目で三河の矢作橋で藤吉郎(日吉丸)と出会い、のち藤吉郎に仕え阿波一国を与えられたが子の家政に譲り、終生「秀吉」の近くで参謀的役割で仕えた。現在、城趾に建つ蓮華寺裏山中腹の竹林に小六、家政と合葬された墓碑があ...
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