3月下旬のクチコミ投稿の訂正。
秋田孝季(あきたたかすえ)集史研究会事務局長の玉川宏です。 「三内丸山遺跡の大型掘立柱建物」の文中、「2.津保化族は春分・秋分を知っていた」で、大変な間違いをしてしまいました。 「石神の神殿が建立された当時、六本柱が作る長方形の4辺のうち、短い2辺の真ん中の2点を結ぶ延長線上から夏至の日の太陽が昇る」と書くべきところを、間違って「春分の日の太陽が昇る」と書いてしまいました。謹んでお詫びいたします。 下記に「夏至の日の太陽が昇る」ことを私に教えてくださった青森市の故浅利康衞氏のことを紹介して、「2.津保化族は春分・秋分を知っていた」の文を訂正いたします。
記
「2.津保化族は春分・秋分を知っていた」
次は「石神の神殿」の建てられた方向のことです。「東日流語部録(つがるかたりべろく)」は神殿建立の時、「どうしてこの方向に向けて神殿を建立したのか」については、何も書き遺していません。 六本柱を線で繋ぐと長方形になります。この長方形の4辺のうち短い辺2本の真ん中の点を、それぞれA点(西側)のB点(東側)とします。 この2点を結ぶ直線ABを引きます。そして直線ABをB点を越えてさらに延長した線と東側に連なる稜線のぶつかる地点が、神殿を建立した年の夏至の日に太陽の昇った地点です。夏至の日がいつなのか、冬至の日がいつなのかは、春分の日と秋分の日がいつなのかを知らなければ知ることはできません。 現在は、夏至の日にこの地点から太陽は昇っていません。夏至の日にA点に立ってB点の方を見ると、B点の右側の柱の後ろに見える稜線から太陽が昇っています。神殿建立時と比べると東の稜線に並ぶ山々のうち少し南側に位置している山から太陽が昇っているのです。 このズレは、「地球の歳差運動(さいさうんどう)」によって、「地球の地軸の傾きが少しずつ変わる」ことによるものです。 歳差運動の1サイクルは、約26,000年です。地球の自転軸は、地球の公転面に対して約23.4度(この度数も時代と供に若干変化する)傾いています。このことによって地球には春夏秋冬の四季が訪れているのです。毎年地球には春分と秋分があり、夏至と冬至があるのです。 なぜこんな話をするかというと、正確な春分点や秋分点を知るには、地球の運動(公転と自転)のことを正確に知らなければなりません。自転は地球が地軸を中心に回る動きで1日に1回転しますす。公転は地球が太陽の周りを回る動きで1年に1周します。 1周に要する日数は365.2422日です。これを365.25日と表現すれば、100年間に25回閏年(1年が366日の年)があることを意味します。365.2422日と表現すれば1万年間に2422回閏年があることを意味し、2500回閏年があるわけではありません。 要するに太陽も地球も月も球体で、地球が太陽を周り、月が地球を周っているというこの運動を正確に知ることなしには、春分点も秋分点も、もっと言えば日蝕・月蝕がいつどこで起きるかは知ることができないのです。これらのことを理解するには、「天の黄道」や「天の赤道」、「春分点や秋分点」という概念を理解することが不可欠なのです。
「石神の神殿」が、今から何千年前に建立されたのか、現在の天文学者なら正確に建立した年を計算できるでしょう。夏至の日の朝、A点に測量機器のトランシットを設置し、まず基準となるB点を視準(しじゅん)し、それからその日太陽が昇った地点を視準します。この視準した2つの側線がA点で作る交角を測定すればいいのです。 ここまでの測量なら、国土地理院に登録されている測量士の私にとっては簡単な作業です。 しかし、視準した2つの側線がA点で作る交角を何度何秒まで正確に測量できても、それで神殿の建立時から現在までの年数がただちにわかるわけではありません。1サイクルが26,000年の「歳差運動」の中で、測量した交角の数値が「1サイクルのどこを示しているのか」は、私にはわかりません。しかし天文学者なら簡単にわかるはずです。 私は天文学については「ど素人(しろうと)」ですが、それでも「東日流語部録」の他の記録を参考にして、神殿の建立年を推測することはできます。 私の推測は、「BC3,200年頃の建立」です。その頃から約5,200年間夏至の日の太陽は、東の稜線から昇り続けていますが、現在は建立時より少し南側から昇っています。もうしばらくらに南側の山から昇るのでしょう。 そしていつか同じ東の稜線でも少しずつ北側から昇るようになります。さらに北側から昇るようになると、ある時点で建立時と全く同じ地点(直線ABのB点からの延長線と東の稜線がぶつかる地点)から昇る時が訪れます。その後も夏至の日の太陽は少しずつ北側の山から昇るようになり、そしていつかまた少しずつ南側の山から昇るようになります。神殿建立時から26,000年後のAD20,800年頃には直線ABの延長線上の山から夏至の日の太陽は昇るのです。 私が「いつか」と表現した時期を、天文学者なら具体的に示せるはずです。 多分、「石神の神殿の設計者」は、「自分たちが地球の歳差運動を知っており、春分点・秋分点も計算で知ることができた」ことを、後世の人たちに伝えるために、「神殿の向きを当時の夏至の日、太陽の昇る地点に向けて建立した」のでしょう。
「石神の神殿が、夏至の日に太陽が昇る地点に向けて建立された」ことを初めて発表したのは、青森市の故浅利康衞氏です。浅利氏は2013年8月1日付の「退職互助部東青支部だより」という機関誌に、「私の三内丸山ノート・六本柱のこと」として、2004年6月17日撮影の写真「大型六本柱(夏至の太陽)」とともに「三内丸山人は、夏至の日の出にあわせて六本柱を建てたはずである(と確信している)」と書いています。写真を撮影したのは2004年6月17日ですから、浅利氏はこの頃すでに、「石神の神殿が夏至の太陽が昇る地点に向けて建立された」ことを確信していたのでしょう。なお私の確認では、2004年の夏至の日は6月17日ではなくて6月21日でした。17日と21日では4日間のズレがありますが、26,000年のスパンを考えると、太陽の昇った位置は全く同じに見えたことでしょう。
浅利氏は、2004年から2013年というこの期間は、「青森市民古代史研究会」の事務局長をされていたはずです。同時にこの時期は、「三内丸山遺跡のボランティアガイド」もなさっていたと記憶しています。だから早朝に遺跡内で、写真撮影もできたのでしょう。 その後、浅利氏は青森市の「和田家文書を読む会」の会長になり、私もその会に入会し、会員となったことで浅利氏と親しくなりました。 2013年8月1日付の浅利氏の書いた記事(写真添付)は、その頃私が浅利氏からいただいたものです...
Read moreHuge! The building is much bigger than I expected even though I’ve already watched several photos of it. See in person is important. Seeing...
Read moreGoogleマップのレビュー投稿(三内丸山遺跡・大型掘立柱建物〈復元〉, 青森県青森市)
⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️(5/5)
青空を背にそびえる高さ約14.7メートルの巨大な木造構造物――三内丸山遺跡のシンボル「大型掘立柱建物(復元)」は、まさに縄文の記憶を可視化した存在。直径1mのクリの柱6本が2列3組で並び、その規模に誰もが圧倒されます。
この復元建物は、遺跡から出土した柱穴6つの配置と間隔をもとに忠実に再現され、当時の人々の驚異的な技術力を現代に伝えています。神殿? 櫓? それとも集会所?...
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