玉崎神社と平田篤胤
江戸時代後期の国学者平田篤胤は、当神社を含む常陸国及び房総半島東側沿岸を旅したという。その目的は自ら提唱する学問の伝播にあったといわれているが、更には、神道の研究の為、香取神宮、鹿島神宮等も訪ねる等、この地方を殊の外重要視している様な趣もある。 後に篤胤は、大陸由来の仏教儒教等の学問を排し、本来の日本古来の純粋な神道を尊重する【復古神道】を成した。その思想は幕末の尊王攘夷論の基本的支柱となったという。 境内にどっしりと置かれた「天の石笛」。享保三年(1718年)頃、漁師の網にかかって引き上げられたという石は、玉崎神社に奉納され、上部に穿孔された穴に風が吹き込むと、まるで笛の如く吹鳴するという。 この辺りでは、波打ち際に寄せる(寄り石)飯岡石(凝灰質砂岩)がこのような多孔質な構造を示し、大小さまざまな石笛が採取奉納された。吹けば鳴る石、その霊験灼然たる様は、平田篤胤の心に響くものがあったのか、これをきっかけに家号を「真菅之屋」から「伊吹乃屋(気吹舎)」と改めたという。神社(記録には不詳で何れの場所かは不明)に奉納された手頃な石笛を、神職に頼み込んで手に入れ、事あるごとに門人知人等に吹いて見せたという。 当神社にある天の石笛は昔、まんが日本昔ばなしにも地元の伝説として取り上げられたらしい。現在、天の石笛はその穴が埋まっているらしく、恐らく吹鳴する事は無いだろう。 神社裏手には、平田篤胤の歌碑が一基建っている。詳しくは立看板を参照。 平田篤胤の名には、諱の【胤】の一字がある。この字が人名に現れる事は比較的珍しい。それ故、かの源頼朝公の功臣であり且つ頼朝公にして「司馬(常胤)を以て父となす」と言わしめた千葉常胤の一字【胤】を諱とする人物は、凡そ千葉一族である可能性が高い(無論そうでない場合もある)。篤胤は元々大和田姓(千葉一族)であり、平田家(これもまた千葉一族)に養子に入り平田姓を名乗った。そんな出自もある事を考慮すると、この旅は戦国時代末期まで存在した北総の千葉一族の古跡に思いを馳せる旅も兼ねていたのかもし...
Read more祭神は、玉依姫命と日本武尊である。 社伝によると、景行天皇紀の四十年(一一〇)、日本武尊が東征の際、玉の浦の東端、玉が崎に創祀された。 中世には下総国二宮とも称され、龍王崎の地にあったが、天文年間に兵火に遭い、積年の海蝕を避け、現在地に移したと伝えられている。 上総国一宮(玉前神社)とともに九十九里浜を鎮護する神社として広く崇められ、漁業関係者をはじめ、過去には国学者の平田篤胤なども参拝し、多くの人々の信仰を集めている。 社殿は本殿と拝殿を幣殿でつなぐ権現造である。 本殿は一間社流造で、正面に板扉、側背面は格子の裏に板を貼った蔀状の壁を設けている。 擬宝珠の銘文から、建築年代は元禄十年(一六九七)頃と考えられる。 虹梁、大瓶束等に中世末期の様式が残り、蟇股等には江戸時代の様式が加わり、本県のこの時代の建築の傾向をよく伝えている。 屋根は当初草葺であったが、後に銅板葺に改められた。 また、向拝は両側面の板戸の材料が新しいことから、もともとは吹き放ちであったと思われる。 拝殿は桁行五間・梁間三間、正面に一間の向拝が付く建物で、棟札によると嘉永五年...
Read more旭市飯岡にある玉崎神社(たまさきじんじゃ)に参拝。下総国二宮市で市街地にある大きな神社。白い大きな第1鳥居、アスファルト道。赤い第2鳥居、石畳参道。右に2基の石碑、末社:八重垣神社、灰黒鳥居の末社:三峰神社。左に玉崎姫龍像、手水舎。雨が降ってきた。境内はイチョウ、トウジ、マキ、クスノキ、広葉樹などの巨木の森。参道をゆく。右に木の鳥居のある末社:大漁稲荷神社、奥の方に「いいおか幼稚園」、昭和61年神幸祭記念碑、昭和天皇御製碑、竹久夢二文学碑、大きな慰霊碑、3基の石碑。天の石笛。左に黒瓦屋根の社務所、御神木。正面に青黒屋根の社殿。社殿右に石垣、白黒鳥居の小社、飯岡助五郎之碑、1基の石碑、木の鳥居の小社、その奥に2基の石碑、木の鳥居の助五郎が信仰していた稲荷社。社殿裏に平田篤胤の歌碑。 ☆祭神 〇主祭神 ・玉依姫尊...
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