R32から南下したした所に在ります。こじんまりとした境内ですが、梅が植樹してあり初春は楽しめるでしょう。 ガレージは鳥居の所に在りますが、区画が決まっているので地面の表示をよく見て停めて下さい。尚、臨時駐車スペースは境内に 向かって駐車場沿い左側の奥に在ります。
[由緒沿革] 光孝天皇の御代、仁和2年正月16日、菅原道真公が御歳42歳のときに讃岐の国司に任ぜられました。 同年4月御来任、阿野南条郡滝宮の官舎に住まわれました。現在の神社境内地はその官舎跡だと伝えられています。
菅公はご来任間もなく国中を巡視し、つぶさに民の疾苦を問い、国民を撫育して大いに実績をあげ、 教育や勧業その他にわたって仁政を施されました。特に、教育には意を注がれ、聖廟(せいびょう)を建て、 孔子の像を祀って子弟を教育されました。 字川西喜来(あざかわにしきらい(地名))の孔聖神社、現在の権現神社はその遺跡に建てられたものであります。
宇多天皇の仁和4年には、麦も枯れ、田植も出来ぬ有様で国民の困窮は記語に絶するものがあったと伝えられています。 この時菅公はこの人民の苦しみを救うため、自ら身命を賭して城山に登り断食七日七夜、一身を神の捧げて 祈雨の願文を奏して人民の困苦を救済することを祈り給いました。すると菅公の祈りが通じて待望の雨が 三日三晩降り続きました。慈雨に喜ぶ国民は老若男女を問わず、国司の邸に郡集し歓喜の余り踊り舞いつつ、 菅公に感謝を表したそうです。
寛平元年7月の頃国内に疫病流行した際には、菅公自ら病家を訪ねて医薬につかせ、また、一方般若心経を手写しして 龍燈院に納め、息災護摩を修し、防疫に尽くされたので効験著しく、人民はことごとく菅公の仁政に感涙したと伝えられて います。公任満ちて菅公はご帰京にのぞみ、国民は皆父母を慕う如く別れを惜しみました。
慶安元年、松平家初代頼重公のとき、菅公の功績を讃えて、毎年社前に執行する念仏踊りは大変貴重な神事として 非常に尊敬し、十分に保護する必要があるとして高札(こうさつ)をだされ、最も厳粛に踊りを執行されました。 現在、滝宮念仏踊は国指定重要無形民俗文化財に指定されています。
その後数百年を経過し、社殿が著しく腐敗するのに及んで桜町天皇の元文6年、社殿の修復を行い、 さらに仁孝天皇の文政5年、崇敬会の有志の者より寄進を受け本殿、拝殿、玉垣等を始め諸建物の増改築を行いました。 その美しさは当国無比といわれましたが、明治6年、社殿は西讃の暴徒により焼失。当時は西讃の暴徒が蜂起(ほうき) してあちこちの役所を焼去しており、当時天満宮の西隣にあった龍燈院の一部を役場として使用していたため 同年6月28日、類焼の厄に遭い荘麗を誇った社殿は惜しくもその一切を焼失しました。 明治21年に再び四方崇敬者の寄進によって再建され、現在の社殿はこの時のものであります。 大正10年、敬神家の寄進によりご修繕を施し、昭和52年、菅公1075年忌祭の際には記念事業として 崇敬者の寄進により、宝物館...
Read more2023.1 言わずとしれた昔から受験の際に参拝する神社⛩️です😉
あたしの大学受験の時は、おみくじで『凶』がでましたが🤭、合格🈴できました🤣 母親に「結んで帰りなさい‼️」と言われましたが、その当時のあたしは逆転の発想ですかね🤔⁉️ 『大吉より数が少ない凶を引くなんて、かえって凄くない😁こっちのほうが縁起がい〜わ〜』などと思った記憶があります✨
まあ、私立の推薦だったので受かりやすかったのかな⁉️ でも、今その大学は高松一高、西高、桜井の生徒も進学するところとなっているので、当時のあたしのオツム(今でもですが😅)だと運で合格したようなものです🤣 (入学すると県外の子達も進学校から来てる人が多かったですね~😱 松山南、松江北、徳山に、岡山朝日、岡山芳泉、倉敷青稜など)
長女の大学受験の際にもお詣りに行きました✨ 彼女も模擬試験ではDやC判定😥 後半はB取ったことあったのかな⁉️ぐらいで、国公立はムリだな~😩 でも、県外の私立は行かさない‼️とパパに言われてるし😓 と、母娘共々困った~😰と、なってました。
参拝に行くと娘の志望校に『合格しました✨』の絵馬があるのを発見🤩 これもなにかの縁やね🥰 この人の運をもらおッ‼️と、絵馬をくっつけたおかげか、見事、国公立に合格🈴できました~🎊
やっぱ、困ったときの神頼み✨✨🙏✨✨ですね~🥰
ちなみに長女も運があるのか、受験前、自宅では集中できない😩ということで、あたしの実家で自宅学習してました。その時、ばあちゃんが観ていたブラタモリで石川県の輪島市が流れていたそう。一緒に観ていたら、なんと‼️2021年の共通テストで輪島のことが出題されていたとのこと🤩
家ではブラタモリをわざわざ観ないので、コレも何か目に見えない不思議なパワー✨が働いたとしか思えない出来事でした✨🙏✨
でも、やっぱり本人の努力も必要です💪 やることやらずに神様だけに頼るようでは合格はできないと思います🤔
受験生の皆様、受験勉強はしんどくて、何でオレこんなに勉強ばっかりしてんだろ⁉️😓となるかもしれませんが、勉強だけに集中できるのは学生の今だけですよ〜🤭
社会人になり、資格試験や昇給試験を受ける時は、仕事しながらの勉強。まして、一人暮らしなら生活全般(ご飯や洗濯、掃除など)も加わり、ヘトヘトになります😅
親の脛をかじることができる今、思う存分甘えさせてもらって勉強に励んでください💪 そして、合格🈴した暁には、ありがとうの一言を忘れずにね~💕💐 それだけで親孝行になりますよ👍
2023.3.7 ...
Read more光孝天皇の御代、仁和2年正月16日、菅原道真公が御歳42歳のときに讃岐の国司に任ぜられました。 同年4月御来任、阿野南条郡滝宮の官舎に住まわれました。現在の神社境内地はその官舎跡だと伝えられています。 菅公はご来任間もなく国中を巡視し、つぶさに民の疾苦を問い、国民を撫育して大いに実績をあげ、教育や勧業その他にわたって仁政を施されました。特に、教育には意を注がれ、聖廟(せいびょう)を建て、孔子の像を祀って子弟を教育されました。 字川西喜来(あざかわにしきらい(地名))の孔聖神社、現在の権現神社はその遺跡に建てられたものであります。 宇多天皇の仁和4年には、麦も枯れ、田植も出来ぬ有様で国民の困窮は記語に絶するものがあったと伝えられています。 この時菅公はこの人民の苦しみを救うため、自ら身命を賭して城山に登り断食七日七夜、一身を神の捧げて祈雨の願文を奏して人民の困苦を救済することを祈り給いました。すると菅公の祈りが通じて待望の雨が三日三晩降り続きました。慈雨に喜ぶ国民は老若男女を問わず、国司の邸に郡集し歓喜の余り踊り舞いつつ、 菅公に感謝を表したそうです。 寛平元年7月の頃国内に疫病流行した際には、菅公自ら病家を訪ねて医薬につかせ、また、一方般若心経を手写しして 龍燈院に納め、息災護摩を修し、防疫に尽くされたので効験著しく、人民はことごとく菅公の仁政に感涙したと伝えられています。公任満ちて菅公はご帰京にのぞみ、国民は皆父母を慕う如く別れを惜しみました。 慶安元年、松平家初代頼重公のとき、菅公の功績を讃えて、毎年社前に執行する念仏踊りは大変貴重な神事として 非常に尊敬し、十分に保護する必要があるとして高札(こうさつ)をだされ、最も厳粛に踊りを執行されました。 現在、滝宮念仏踊は国指定重要無形民俗文化財に指定されています。 その後数百年を経過し、社殿が著しく腐敗するのに及んで桜町天皇の元文6年、社殿の修復を行い、さらに仁孝天皇の文政5年、崇敬会の有志の者より寄進を受け本殿、拝殿、玉垣等を始め諸建物の増改築を行いました。 その美しさは当国無比といわれましたが、明治6年、社殿は西讃の暴徒により焼失。当時は西讃の暴徒が蜂起(ほうき)してあちこちの役所を焼去しており、当時天満宮の西隣にあった龍燈院の一部を役場として使用していたため 同年6月28日、類焼の厄に遭い荘麗を誇った社殿は惜しくもその一切を焼失しました。 明治21年に再び四方崇敬者の寄進によって再建され、現在の社殿はこの時のものであります。 大正10年、敬神家の寄進によりご修繕を施し、昭和52年、菅公1075年忌祭の際には記念事業として 崇敬者の寄進により、宝物館...
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