【城探究】 ◉城址 逆井城 📍茨城県坂東市
逆井常宗の居城として築かれた中世城郭で、北条氏の下野や常磐方面の前線基地としても使われた「逆井城跡」を探究しました。
8時47分に探究で遺構のある逆井城跡公園を中心地点として周辺を探究しました。
🏯逆井城(飯沼城)
☆分類・構造 平城
☆築🏯主 逆井常宗
☆築🏯年 宝徳2年(1450年)
☆主な城主 逆井常宗 後北条氏
☆廃城年 天正18年(1590年)
☆沿革 享徳年間(1452〜1455年)下野祇園城主(栃木県)である小山義政の5男常宗が逆井城を築いたとされています。 逆井の地を知行し逆井を名乗り、常宗の孫にあたる常繁は古河公方(関東足利氏)に仕えていましたが天分5年(1536年)、北条氏康の命を受けた大道寺駿河守の攻撃によって常繁は討死、逆井城は落城しました。 天正5年(1577年)に後北条氏の家臣、北条氏繁が大規模な改修を行い今に残るような城郭となり「飯沼城」と呼ばれて常磐国の佐竹義宣や武蔵国の多賀谷氏などの防衛城として機能するようになりました。 天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐によって落城し北条氏滅亡に伴い廃城となりました。
☆二層櫓(復元) 戦国時代末期の城郭建築の歴史考証を基に、外観二層の容姿を復元したもの。
☆関宿城門(移築) 室町時代のころに足利氏(鎌倉公方)の家臣であった簗田氏によって築かれた千葉県野田市にある関宿城の城門と言い伝えられています。 門扉が雨で濡れないように本柱を門の中心線上から前方にずらしてあり、薬医門と呼ばれています。
☆主殿(復元) 文禄3年(1594年)佐竹義宣によって築かれた茨城県潮来市にある堀之内大台城内にあった主殿遺構を復元されたもの。
☆観音堂(移築) 戦国時代末期の天正16年(1588年)に建立された茨城県岩井市にある「大安寺」より移築されています。
☆井楼矢倉(復元) 米を蒸す蒸篭と同じように井形に組んだ方形材を次々と組み上げた物見櫓となっており、敵の動勢を監視したり味方全軍の動勢を把握する為に使用されています。 戦国時代末期の物を復元したものなので遺構ではありません。 間口・奥行ともに2.73m 高さ 11.86m
☆鐘堀池 天文5年(1536年)3月3日、逆井城主逆井常繁が北条氏康の大道寺駿河守の城攻めに敗れ戦死しました。 この時、城主の奥方智姫が先祖伝来の鐘をかぶって池に飛び込んで自殺したという伝承があります。 この鐘を掘り出すために人々が掘り返したため、鐘堀池と呼ばれているそうです。
☆木橋と櫓門(復元) 逆井城跡の発掘調査の結果を基に復元されています。 橋の遺構は礎石・男柱・支柱の穴が見つかり、櫓門の遺構は東西3個ずつ2列で方形に結べる柱穴と雨後溝が見つかっています。 復元には遺構保存のため、旧位置より西へ1m、北へ50cmずらされています。
◉感想 境城址公園南側にある駐車場に🚘️車を停めて公園(西ニノ曲輪)へと入ります。 入口すぐには二層櫓と大きな空堀があり、その空堀奥は入り江(舟入)のようになっているので船着場として利用されていたようです。 二層櫓は中に入る事が出来るので2階へ上がり廻縁から眺めると西ニノ曲輪にある井楼矢倉や西ニノ曲輪の風景を良く見る事が出来ます! 西ニノ曲輪にある「関宿城門」「主殿」「観音堂」「井楼矢倉」は逆井城とは直接関係のあった遺構ではないですが同時期に作られた建造物として展示されており、戦国時代の時代背景が体感出来る貴重な物となっています!
東ニノ曲輪に行く途中には「馬出」や「鐘堀池」があり、四角い形状の馬出は後北条氏の城郭の特徴の1つとなっています。 また東ニノ曲輪奥にある二重構造の空堀も同じように後北条氏の城郭造りと同じとなっています。 鐘堀池の伝承にある逆井氏の滅亡に関しては時代背景に矛盾があり当時、後北条氏はまだ近隣に来ておらず、武蔵国南部(東京都と神奈川県境付近)までしか勢力図がありませんでした。(興味深い)
東ニノ曲輪と西ニノ曲輪から主曲輪の間には深さ4m、幅6〜7m程の深い空堀が続いており、その途中に「櫓門と橋」があります。 遺構跡はしっかりと残されており、遺構保存のためずらした位置に造らている事には非常に好感が持てます!
今現在、逆井城跡周辺は平地が広がる台地となっていますが当時は逆井城の東から北側にかけて長さ30Km、幅1Kmにも及ぶ「飯沼」と言う巨大な沼が広がっており、対岸には結城氏や多賀谷氏に佐竹氏など強力な武将が覇権を争う群雄割拠な時代となっていました! 逆井城(飯沼城)は「逆井城跡公園」としてとても良く整備されているであり、後北条氏による中世城郭の雰囲気を思う存分に味わう事が出来る素晴らしい城址となっています!
ありがとうございました。
◉所在地 茨城県坂東市逆井1262...
Read more【当史跡】(サカサイジョウアト)は、戦国末期において「古河公方」、「後北条氏」及び「佐竹氏・多賀谷氏」が三つ巴の戦いを繰り広げて、居城の運命とともに入水に当たり釣り鐘とともに堀に沈んだ姫御前と言う悲話を持つ。 当城は、下総国猿島郡(茨城県坂東市逆井)にあった戦国時代の日本の城(平城)。落城後、後北条(ゴホウジョウ)氏によって大規模に築城しなおされた。初めの逆井氏の城を「逆井古城」、後北条時代の城を「飯沼城」とも呼ばれる。 【逆井古城】は、築城が享徳(キョウトク)年間(1452~1455年)ごろと言われる。小山義政(オヤマヨシマサ)の五男「常宗」がこの地を領して逆井氏を名乗り、この城を居城にした。しかし常宗の孫「常繁(ツネシゲ)」の時の天文5(1536)年、古河公方(コガクボウ)方であった逆井氏は後北条氏と対立した。そのため後北条方の「大道寺盛昌(ダイドウジモリマサ)」の攻撃を受け逆井古城は落城、逆井氏は滅亡したと伝わる。 【飯沼城】は、後北条氏の勢力下に入った逆井城は、天正5(1577)年、逆井の地は北条氏にとって下野・常陸方面への侵攻の最前線であったため、玉縄(タマナワ)城主北条氏繁(ホウジョウウジシゲ)によって藤沢から技術者が呼ばれ、新たに築城されることとなった。後北条氏の最新の技術が投入された飯沼城には氏繁が入り、佐竹(サタケ)氏・多賀谷(タガヤ)氏などと対峙した。天正6(1578)年、氏繁は逆井城で没し、その後を子の氏舜(ウジトシ)・氏勝(ウジカツ)兄弟が継いだ。風魔小太郎(フウマコタロウ)の子・風魔孫右衛門など忍者集団300人が拠っていたとも言われる(「関八州古戦録」)。天正18(1590)年、豊臣秀吉の小田原征伐による後北条氏の没落に伴い、廃城となった。 【所在地】は、茨城県坂東市逆井1261(〒306-0501)である。 「逆井」の地名が気になるが、調べても謂れが出てこない。直訳すれば、井戸の水は台地の麓に恵まれるが、城内においては高台に掘った井戸が水に恵まれたのだろうか?。それとも北の飯沼が南北30kmと細長く対岸との境界線を形成したことから境=さかい=逆井となったのだろうか?。当地の西方には「境町」が存在する。武家の領地争いの元になる境界が大事なことだったので、この地名(名称)が誕生したのだろう!。争いと言えば、平成の大合併で消滅した町に「総和町」と「三和町」がこの近くであるが、この謂れが争い事が多いことから和やかになるように命名されたと知り合いの町役場職員から聞いた時には選挙時の争いと思ったが、今から思うと戦国時代、さらに源平の対立にまで遡るのかもしれない!。 【特長】は、北側に西仁連(ニシニヅレ)川用水を臨み、西に入江だった蓮沼が存在する台地の先端上に位置していることである。西仁連川は江戸時代の干拓の際に沼の西側外周部が掘削されたもので、干拓前は「飯沼(イイヌマ)」という南北30kmに広がる沼が城の北方に存在していた。この南北に細長い飯沼は逆井城の北で東西に蛇行しており、城はこの沼の歪曲部に位置し沼に囲まれた「後堅固の城」であった。 北崖を飯沼が洗い堅固なため、本丸が最北端に位置している。南側に曲輪が連なり、大軍も収容できるように大規模な構造となっている。 【接道】は、県道中里坂東(125号)線と県道若境(137号)線。前者からは、「下新田」の信号機から北方向に進むと、左手に見えてくる。後者からは、信号機の無い十字路を逆井城跡(公園)の案内看板の誘導に従い西方向に入る。 茨城県道137号若境線は、茨城県結城郡八千代町若から猿島郡境町に至る一般県道である。 茨城県道125号中里坂東線は、茨城県古河市東山田字中里から坂東市に至る一般県道である。 【駐車場】は、史跡周辺に数ヶ所整備されているが、主な駐車場は中心部に向かう道路に面するもの(アスファルト舗装)である。他の駐車場は、未舗装である。 【トイレ】は、史跡内の観音堂の北側に整備されている。これ以外にもグラウンドゴルフ用に仮設トイレ...
Read more清水太郎の逆井城探訪記
平成21年11月22日にかねてからの願いであった、茨城県坂東市にある逆井城を仕事のついでに訪れる事ができた。天候は快晴、気温は16度。 逆井城の歴史 逆井城は飯沼に臨む標高20mの台地先端にあり、城の北側は飯沼が洗い、西側は入江の蓮沼に接していました。飯沼は江戸時代の新田開発により湖水はなくなりましたが、およそ幅1km・南北30kmにわたり、その名残を残しています。今から約410年前(城の複元された時期)の戦国時代に、此の飯沼が後北条氏と佐竹・結城氏・多賀谷氏らの領国の境目でした。進攻を続ける後北条氏は飯沼に築城をはじめ、天正5年(1557)10月、北条氏繁(玉縄城主)は、藤沢より城の建物をつくるため大鋸引の職人をよんでいます。城主となった氏繁は、盛んに佐竹・下妻方面の動静を報告していますが、翌天正6年(1558)にこの飯沼城中で没し、その後氏舜が城代となりました。天正18年、豊臣秀吉は小田原城に後北条氏を滅し、この飯沼城も廃城となりました(現地案内板)。飯沼の中央西岸、猿島台地の縁に逆井城がある。後北条氏の築城技術の粋を集めて築城された城である。『関八州古戦録』などによると風間孫右衛門・石塚氏らの忍者集団300人を当城に入れたという記事がある。忍者による警護体制を物語るものとして注目されるという。逆井城は平成2・3年度に一部が復元された。 北条氏政は、古河公方足利義氏の本拠地であったこの地方に栗橋城と関宿城・水海城を構築、北条氏照を置き、北方進出の拠点とした(拙者ブログ「戦国残照」を参照されたい)。後北条氏の拠点となる以前、逆井城には逆井氏を名乗る豪族があったといわれる。伝承では後北条氏大道寺駿河守が、逆井常繁が守る当城を攻め落城させた、この時、常繁の室とも娘ともいう智御前もしくは智姫が鐘をかぶり、城中の井戸へ身を投げた。この井戸を「鐘堀り池」と呼び今に残る。この時常繁は討死、慰霊は常繁寺となって弔われた、というのである(拙者ブログ「八王子合戦と大道寺駿河守政繁」を参照されたい)。この逆井氏は小山一族と伝え、享徳五年(1456)の大宝八幡宮の鐘銘に「逆井尾張守常宗」と刻されているから、逆井氏は実在していたことになる。 逆井城が築かれた天正五年は後北条氏が常陸・下野勢力と最も激しい戦闘を行った年にあたる。栗橋城にいた氏照は、五月に「去る十五日以来、結城・山川間へ打入、毎日彼領中を打散され候、此度は長陣を遂げられ……」と芦名盛氏に報告。当城に氏照軍が駐屯、飯沼の対岸へ押し出している。尚、西ヶ谷恭弘著『戦国の城 上ー目で見る築城と戦略の全貌』84頁から89頁にイラストと写真等がある。
①二層櫓...
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