筑紫神社(ちくしじんじゃ)は、JR原田駅の北850mほどの筑紫野市原田(旧筑紫郡筑紫村大字原田字森本)の旧長崎街道沿いの高台に鎮座している神社です。式内社(名神大社)で、旧社格は県社です。
創建は不詳です。 貞観元年(859年)従四位下の神階奉授を受け、元慶3年(879年)には従四位上に昇叙されました。 延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳』では筑前国御笠郡に「筑紫神社 名神大」と記載され、「名神大社」に列しています。 天元2年(979年)の官符によると住吉神社・香椎宮・竈門神社・筥崎宮とともに筑紫神社に大宮司職を置かれました。 鎌倉時代からは、地頭職にあった筑紫氏が社司を兼ね、享徳2年(1453年) には、筑紫経門、俊門によって社殿が造営されました。この頃、原田宿の南の外れにある祇園社を御旅所として神幸が行われていたと『縁起』に記されています。 戦国時代、筑紫氏が勝尾城(鳥栖市)に本拠を置き、天正14年(1586年)薩摩国の島津勢に攻められ落城した時、筑紫神社の神領も没収され、神宝・古文書類も兵火に遭い、祭りも途絶えました。 江戸時代に入り、、筑紫氏の流れを汲む山内氏が、ただ一家遺り社職を継ぎました。寛文2年(1662年)造営の社殿は、延宝8年(1680年)火災に遭いますが、翌年、筑紫・原田の村人が力を合わせて神殿・拝殿・大門を再興しました。また貝原益軒も、筑前福岡藩主の黒田家から資材を賜り、正徳2年(1712年)に社殿を造営するなど、復興に尽力しています。境内最古の元禄12年(1699年)の石鳥居についても、額の揮毫を花山院定誠(かさんのいん さだのぶ)に、両柱の銘文を官梅道栄に依頼しています。 筑紫神社の表参道は、長崎街道筑前六宿の一つ「原田宿」につながり賑わいをみせていました。
御祭神は、筑紫の神 (筑紫の国魂)・玉依姫命 (竈門神社から勧請)・坂上田村麻呂 (後世の合祀)です。 筑紫の神について「白日別神」とする説や「五十猛命」とする説があります。 白日別神(しらひわけのかみ)説は、吉村千春による説で、古事記』の国産み神話においては、筑紫島(九州)の4面として筑紫国、豊国、肥国、熊曽国の記載があり、「筑紫国を白日別という」とあることによります。光・明・日を表す朝鮮の借字が「白」であることから、朝鮮との関係が指摘されます。 五十猛命(いそたけるのみこと)説は、松下見林・貝原益軒による説です。『日本書紀』では神代の別伝として、スサノオが五十猛神(五十猛命)を連れて新羅に天降り、のち出雲に移ったとあります。このとき、五十猛神は多くの樹種を持っていましたが、韓国では植えず、筑紫から始めて国中に播いたと伝えられます。以上の説話から、五十猛神が渡来系の神であったことがうかがわれ、やはり朝鮮との関係が見えます。
拝殿正面には、幕末・明治維新期に活躍した公卿の大原重徳が揮毫した堂々たる「国号起源」の額が掲げられています。 その奥中央には、元禄12 年(1699年)...
Read more筑紫神社です🐈 駐車場🅿有り トイレ🚻有り 車椅子♿大丈夫です。
祭神は 筑紫の神(つくしのかみ) 玉依姫命(たまよりひめのみこと) 坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ) 県社ですが奈良時代の「日本三大実録」では、筑紫神が従四位に昇格した記録があり、格式が高かったと思われます🐈
坂上田村麻呂はご存知、征夷大将軍で 「人の死なない道を行く」と言った 蝦夷を平定した人ですね🐈
玉依姫命はご存知、神武天皇のお母様🐈
筑紫の神、これがまた謎なんです。 わかっているのは天照大御神、素戔嗚、月詠命、より以前に産まれた、九州を造るときに出てきた神々です。 「古事記」の国生みの話には次のように書かれています。 「筑紫島は身一つにして面四つあり。
筑紫国は白日別、 豊国は豊日別、 肥国は建日向日豊久士比泥別、 熊襲国は建日別という。」 その筑紫国の白日別のことです。
白日別命に近い神名は「白日神」 この神様は大歳神と伊怒比売(神活須毘神の女)の五子神(大国御魂神・韓神・曽富理神・白日神・聖神)の一柱です。
古田武彦著の 「盗まれた神話」に楽しい記述があります。 古田説(地名から神名を取っておられます)
大国御魂神 出雲(大国主) 韓神 加羅の神 曽富理神 (筑紫の)添ソホリ山の神 白日神 ららぽーと近くの須玖遺跡近くの白木原近傍の土着神 聖神 (ヒジリカミ)
白日神に「別」がついて「白日別神」となるわけです。 この両者はどう違うのか、どう関係するかは、神武天皇の東征が2回あったことで説明できると思います。 もともと存在した神武東征の事実をもうひとりの神武天皇が神話ごと盗んだと考え、別と付けることで自勢力と分けて認識。 別と付けられた神々はオリジナルだと思いますが推測の域です。
白日別命の祭祀社
白日別命は筑紫地域では三社に祀られています。福岡県神社誌より
1筑紫神社(筑紫野市原田)祭神 筑紫大明神(白日別神・五十猛尊) 宝満大神(玉依姫命) 後祀:田村大神(坂上田村麿)
2住吉神社(岡垣町高倉)祭神 筒男三神・志賀三神・警固三神・白日別筑紫神・玉依姫命・ 応神天皇・若八幡神・下照姫命・大巳貴尊・少彦名命
3筑紫神社(朝倉市杷木町志波)祭神 白日別命 境内社は端折ります。
あとは佐賀に四面神社として一社
長崎には 温泉神社(うんぜんじんじゃ)があり四面という四柱を祀った神社がたくさんあります(長崎県雲仙市小浜町) ...
Read more筑紫神社(ちくしじんじゃ)。福岡県筑紫野市原田。
式内社(名神大)、旧県社。
主祭神:筑紫の神 (つくしのかみ) - 筑紫の国魂(五十猛神とも白日別神とも云われる)。 玉依姫命 (たまよりひめのみこと) - 後世に竈門神社から勧請。 坂上田村麻呂 (さかのうえのたむらまろ) - 後世の合祀。
なお本居宣長は、『古事記伝』において「命尽くし」の由来説を有力視する。これらの伝説が筑紫神社の成立に直接関わるかは明らかでないが、中でも筑紫君(筑紫国造)・肥君(火国造)が祀ったという所伝が特に注目されている。当地は筑紫君の勢力圏内であるが、肥君が本拠地の九州中央部から北九州に進出したのは6世紀中頃の磐井の乱が契機で、この所伝にはその進出以後の祭祀関係の反映が指摘される。また、白日別神・五十猛命を筑紫国造、火国造の遠祖神とする説からは、後に筑紫神社を奉斎した少弐氏流の筑紫氏は、筑紫国造後裔の筑紫君の跡を継いだことが想定される。 とあります。
資料によると、 創建は不詳。元々は城山山頂に祀られていたが麓に移されたという説、当初から現在地に祀られたという説がある。
「筑紫」の名称は、九州を「筑紫嶋」(古事記)または「筑紫州」(日本書紀)といったように広義では九州全体も指したが、狭義では筑紫神社周辺の地名を指すとされ。考古学的には、当地周辺の背振山地東部の低丘陵地は弥生時代中期において甕棺墓の分布中心部、後期においては青銅器生産の中心地であった。銅鐸祭祀の源流も一帯の地域にあると見られるがその盛行には渡来系の知識が欠かせず、前述の白日別・五十猛命の伝承も合わせると、渡来者集団による祭祀が指摘される。 とあります。
参考として、 主祭神の筑紫の神については、諸説入りまじっているが、 もう一神の玉依姫命や、後世の合祀である坂上田村麻呂については全く説明が見られない。 そのことから、推考すると、 玉依姫命は、綿津見神の娘神で、阿曇族の神としてここ筑紫の国においてその関連が考えられる。 また、坂上田村麻呂については漢系渡来系氏族である。 その辺りから、主祭神の筑紫の神...
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