大己貴神社(おおなむちじんじゃ) 所在地 朝倉郡筑前町弥永(いやなが)字大神屋敷 祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)・天照皇大神(あまてらすおおかみ)・春日大明神 例祭日 二月十一日・七月二十二日・十月二十三日
地元では「オンガサマ」と呼び親しまれています。このお宮は神功皇后(じんぐうこうごう)の伝承地で、皇后が新羅(しらぎ)(大陸)との戦のとき、兵が集まり難(にく)かったので、兵が集まるように社(やしろ)を建てて祈願したとのことです。このときの社が、この神社であるとされ、我が国で最も古い神社とされています。 社殿(しゃでん)・拝殿(はいでん)は町の重要文化財に指定され、江戸時代末期から明治初頭の建造物で、原型は八幡造(はちまんつくり)でしょう。二棟の切妻造(きりづまづくり)、平入りの建物が前後に接続した形をしています。全面の建物が拝殿、後ろの建物が神座です。拝殿には唐破風(からはふ)の向拝(こうはい)がついています。
平成二一年三月 筑前町教育委員会 境内掲示板 ーーーーーーーーーーーーーーーー 大己貴(おおなむち)神社
式内社で『延喜式(えんぎしき)神名帳』に「於保奈牟智(おおなむち)神社」と記載されている。『日本書紀』によると「仲哀(ちゅうあい)天皇九年庚午朔日己卯(こうごついたちきぼう)、神功皇后(じんぐうこうごう)諸国に令して、船舶を集め、兵甲(つわもの)を練(ね)らる。時に軍卒(いくさびと)つとひかたし。皇后の曰(いわく)、必神の心ならんとて、大三輪社を立て、以て刀矛(ほこ)を奉り玉ひしかは、軍衆自聚(いくさびとどもおのずとあつま)る」と神功皇后とこの神社との説話が記されている。また、江戸時代の『筑前国続風土記(ちくぜんこくぞくふどき)』の中に「九月二十三日祭禮(さいれい)あり。此日神輿御神幸(みこしごじんこう)あり。御旅所は村の西十町許(ばかり)にさやのもとと云う所あり。(中略)然(しか)れ共(ども)夜須郡東部の惣社なれは、其敷地広く、産子殊(うぶことく)に多くして、人の尊敬浅からず。」現在、十月二十三日の秋季例祭の記載がある。 同じく江戸時代の『太宰管内志』の中の「筑前神社志に皇后(神功皇后)より後に嵯峨(さが)天皇弘仁(こうにん)二年勅願(ちょくがん)有て御建立 (こんりゅう)あり其後六百六十一年を経て後(のち)土御門院(つちみかどいん)文明三年勅願として御建立あり其間数度建替ありといへども詳(つまびらか)ならず伝われる縁起記録類は天正(てんしょう)年中兵火にかかりて尽(ことごと)く焼失す天正十五年より九十六年の間かり殿に居ましける寛文十二年石鳥居建立祭禮神幸の儀式同十三年に再興す本社貞享(じょうきょう)四年改造す拝殿は元禄(げんろく)五年建立同六年社領少黒田甲斐守(かいのかみ)寄附し給へり。神職松木氏先祖より寛永(かんえい)二年まで六十二代相続せり」とある。 また、『筑前国続風土記附録』に「此村及甘木・隅江・楢原・甘水(あもうず)・持丸・菩提寺(ぼだいじ)・千代丸・牛木・馬田(まだ)・高田・野町・依井(よりい)・大塚すへて十四村の産神(うぶがみ)にして、夜須郡の惣社也。」とある。
平成二十六年十二月
筑前町
境内掲示板 ーーーーーーーーーーーーーーーー 神功皇后と羽白熊鷲(はじろくまわし)(説話) 所在地 筑前町弥永字谷口四五九ー一番地(歴史の里公園)
昔、羽白熊鷲という在地の豪族が本拠を朝倉市秋月の「荷持(のとり)」(野鳥(のとり))、に構え、筑前町一帯を支配していました。熊鷲は白い鳥の羽を付けて鷺舞(さぎま)いを演じ、「まつりごと」を行う鳥装(ちょうそう)の司祭者です。 ある年、ヤマトの国から神功皇后が九州にやって来て、香椎(かしい)(福岡市東区香椎)に宮を定めました。そして、皇后は朝鮮半島の新羅と戦うため、各地の豪族に命令を出し、多くの兵士を集めさせました。しかし、熊鷲はこの命令に従いませんでした。 皇后はたいそう怒り、新羅出兵の前に熊鷲を征伐することにし、軍隊を香椎の宮から朝倉地方へ進軍させました。皇后軍は筑前町の砥上(とかみ)方面から熊鷲の領地へ侵攻し、森山峠を越えて、栗田(くりた)に到着したと想定されます。しかし、皇后は栗田で行軍を一旦停止させ、「松峡(まつお)」(筑前町栗田字松尾)に宮を定めました。決戦は「曽増岐野(そそぎの)」(注( そそ)ぎ野・・新町・高上(たこえ)付近)で行われました。そして、皇后は熊鷲を征服し「我が心安(やす)し」(私は安心した)と語りました。この「安(やす)」が当地方の郡名起源とされ、後に「夜須(やす)」(郡)の二文字に改められました。 熊鷲平定後、新羅出兵の兵士はなかなか集まらず、皇后は「大己貴神社」(大神屋敷(おおかみやしき))に社を建て、矛をささげました。これは、勝者が打ち込んだ楔(くさび)、あるいは熊鷲への鎮魂だったのでしょうか。いずれにしても、熊鷲という在地豪族がヤマト(中央)の政権に組み込まれていく過程を物語るのでしょう。 弥永周辺は、広い扇状地の要に位置し、古代の雲堤(うなで)郷(ごう)に想定されています。かつて草場(くさば)川から依井(よりい)〜上高場(かみたかば)にかけて「千間溝(せんけんみぞ)」(千八百メートル)があったといいます。ただ、何時(いつ)、誰が掘らせたのか、既に江戸時代にはわからなくなっていました。皇后が四方に目を配ったという「目配山(めくばりやま)」(山頂に皇后腰掛け石)は「水分山(みくまりやま)」の転訛(てんか)とも考えられ、そうであれば水利権を掌握する権力機構の存在も想定できます。 仮に、この「千間溝」を古代の造営とすれば、その築造者は、弥永の大己貴神社の大神(おんが)さま(羽白熊鷲と同一人物か)、あるいは久光(ひさみつ)にある仙道(せんどう)古墳(六世紀後半)の被葬者が想起されます。 また、吹田(ふきた)に「鷲尾塚(わしおづか)古墳」(五世紀)、朝倉市の矢の竹(やのたけ)に「熊鷲塚」などの伝承地があります。 参考文献『古事記』・『筑前国風土記逸文』・『日本書紀』および「筑前国続風土記』の伝承等
平成二十三年三月二十五日
筑前町教育委員会
大己貴神社...
Read more今回ご紹介する神社仏閣【いいコレ】スポットは福岡県朝倉郡筑前町に鎮座する『大己貴神社(おおなむちじんじゃ)』
大己貴神社の歴史は古く、『日本書紀』(西暦720年)を始めとする歴史書に多数記載があります。 その由緒の始まりは第14代の仲哀天皇9年とされています。 仲哀天皇の后・神功皇后が、現在の朝倉市野鳥辺りに勢力を持っていた豪族〔羽白熊鷲〕を征伐後、 新羅討伐の兵士を招集するために創祀し、戦勝を祈願したという言い伝えがあります。
また、大己貴命(大國主命)を祀り、交通安全・開運招福を願う神社です。 社殿・拝殿は町の重要文化財に指定されおり、伝説上の魔除け・縁起の良い動物、さらに当時の地域の自然物などが活き活きと彫刻され、鮮やかに彩色されています。
P.S. 10月23日に開催される秋季大祭「おくんち」は、700年ほどの歴史を持ち、江戸時代には現在の形になったといわれ、昔からの伝統を受け継ぐ神輿行列が練り歩きます。
[大己貴神社(おおなむち)]
所在地:朝倉郡筑前町弥永字大神屋敷 祭神:大己貴命・天照皇大神・春日大明神 祭礼日:2月11日・7月22日・10月23日 地元では「オンガサマ」と呼び親しまれています。 このお宮は神功皇后の伝承地で、皇后が新羅(大陸) との戦のとき、兵が集まり難かったので、兵が集まるように社を建てて祈願したとのことです。 このときの社が、この神社であるとされ、我が国で最も古い神社とされています。 社殿・拝殿は町の重要文化財に指定され、江戸時代末期から明治初頭の建造物で、原形は八幡造でしょう。二棟の切妻造、平入りの建物が前後に接続した形をしています。 しかし、建物の中間に石の間をおき、前面の建物が拝殿、後ろの建物が神座です。拝殿には唐破風の向拝がついています。
平成21年3月 筑前町教育委員会
[大己貴神社]
式内社で『延喜式神名帳』に「於保奈牟智(おおなむち)神社」と記載されている。 『日本書紀』によると「仲哀天皇9年秋九月庚午朔己卯(こうごついたちきぼう)、神功皇后諸国に令して、船舶を集め、兵甲(つわもの)を練らる。 時に軍卒(いくさびと)つとひかたし。 皇后の曰(いわく)、必神の心ならんとて、大三輪社を立て、以て刀矛(ほこ)奉り玉ひしかは、軍衆自聚る(いくさびとどもおのずとあつまる)」と神功皇后とこの神社との説話が記されている。 また、江戸時代の『筑前国続風土記』の中に「9月23日祭禮(さいれい)あり。此日神輿御神幸あり。御旅所は村の西十町許(ばかり)にさやのもとと云う所あり。(中略) 然れ共夜須郡東部の総社なれは、其敷地広く、産子殊(うぶことく)に多くして、人の尊敬浅からず。」 現在、10月23日の秋季例祭の記載がある。
同じく江戸時代の『太宰管内志』の中の「筑前神社志に皇后 (神功皇后)より後に嵯峨(さが)天皇弘仁(こうにん)2年勅願(ちょくがん)有て御建立あり其後661年を経て後土御門院(のちのつちみかどいん)文明3年勅願として御建立あり其間敷度造替ありといへども詳(つまびらかな)ならず伝われる縁起記録類は天正年中兵火にかかり尽く焼失す 天正15年より96年の間かり殿に居ましける 寛文12年石鳥居建立祭禮神幸の儀式同13年に再興す本社貞享四年改造す拝殿は元禄5年建立同6年社領少黒田甲斐守(くろだかいのかみ)寄附し給へり。 神職松木氏先祖より寛永2年まで62代相続せり」とある。 また、『筑前国続風土記附録』に「此村及甘木・隈江・楢原・甘水(あもうず)・特丸・菩提寺・千代丸・牛木・馬田・高田・野町・依井・大塚すへて14村の産神にして、夜須郡の惣社也。」とある。
平成26年12月 筑前町
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Read more式内社「於保奈牟智神社」に比定される古社。オホナムチ(大己貴)は出雲大社に祀る大國主とも、三輪山の主である大物主(おおもぬし)とも言われる。 大國主を祀るということで、大黒様も境内に立つ。同じ神なら別に祀るのも変だが、こっちは仏像なので別扱いらしい。元ネタの大黒天は、破壊神シヴァの化身マハーカーラを仏典に取り込んだもので、福々しいダイコク様とは全然違う。どこかで財宝神クベーラ(毘沙門天)と入れ換わったらしい。 一の鳥居より手前に「幸神」を立てる。「さいのかみ」と読み、塞ノ神のことで、猿田彦大神や庚申尊や道祖神などと同じものである。これも元はマハーカーラだったらしい。 大黒様より左手奥に奥宮がある。形式的には宗像大社辺津宮にある高宮に似る。しかし、この奥宮は大神山を仰ぐ拝所である。あの山こそが御神体であるならば、社殿は後から追加されたものかもしれない。
仲哀紀に曰く。 (神功皇后)諸國に令して、船舶を集め兵甲を練る。時に軍卒集まり難く、皇后曰く、必ずや神の心あらむと。則ち大三輪の神を立て、以て刀矛を奉りしかば、軍衆自ら聚ふ。
これを当社の創建とする。鳥居の篇額は「大神神社」としたものがあり、「おおみわじんじゃ」と読む。 日本書紀の記事及び篇額に従い、三輪山の大物主で決まり。と言いたいところだが、三輪山は奈良にあって遠く、地元では「おんがさま」と呼ぶ。遠賀川(おんががわ)の源がある馬見山は、この山の向こうにあって、その流域ではない。と思うのだが、遠賀の語源が他に有るとも知れない。 また、この社は筑前國夜須(やす)郡に位置する。神功皇后が羽白熊鷲を撃ち滅ぼして「我が心、安し」と宣言した「安(やす)」である。 その地の首長を殺しておいて、兵員募集が上手くいくはずもない。そこで神を祀ると恨みが解けたというのなら、実は羽白熊鷲の氏神或いは本人を祀る可能性もある。 それが大己貴であるならば、この地が古の出雲かもしれない。 或いは「出雲」が固有名詞ではないのかも。
日本書紀の神代、一書に曰く。 稻田宮主簀狹の八箇耳が生れます兒の眞髮觸(まかみふる)奇稻田媛(くしいなたひめ)を以て、出雲國の簸川(ひのかは)上に遷し置き、長養(ひだ)しまつる。然る後、素戔嗚尊、妃と爲し以て生(あ)れます所の兒の六世孫、是を曰く大己貴命。(大己貴、此を於褒婀娜武智と云ふ。)
一書に曰く。大國主神、亦の名は大物主神、亦は號(なづ)けて國作(くにつくる)大己貴命、亦は曰く葦原醜男、亦は曰く八千戈(やちほこ)神、亦は曰く大國玉神、亦は曰く顯(うつし)國玉神。其の子凡せて一百八十一神有り。
古事記では「此の神(天之冬衣神)、刺國大上神之女、名は刺國若比賣を娶りて生みたまへる子、大國主神。亦の名を大穴牟遲(むち)神と謂ひ、亦の名を葦原色許(しこ)男神と謂ひ、亦の名を八千矛神と謂ひ・亦の名を宇都志(うつし)國玉神と謂ふ、幷せて五の名有り。」とあり、おなじみ「稻羽之素菟(いなばのしろうさぎ)」や兄弟の八十神との確執、根堅州國に於ける須佐之男命の婿いびりなどを経て男を上げる。のだが、そんな面白い話は日本書紀にも出雲國風土記にも無い。どうやら出雲出身ではないらしい。
三輪山の神なら蛇体であるはずだが、蛇の形象も見当たらない。社殿は華麗な意匠で飾られ、普通ではない雰囲気、しかし何より当社一番の特徴はこの所在地であろう。...
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