秋田魁新聞の記事で知った、大仙市払田に有る歴史的建造物「払田の柵」に設置されたピンクの「どごさでもドア」 早速お邪魔してきました!
ちなみに「どごさでも」とは、秋田弁で「どこえでも」を表した言葉。つまり「どこでもドア」の秋田弁バージョンです(*^^)v
駐車場に車を停めると、目の前には「観光案内所&休憩所」が。払田の柵の他の観光スポットを確認できますよ。
隣には、「払田柵総合案内所」が。大型スクリーンによる解説や様々な展示物などで払田の柵について知ることが出来ます。
払田の柵の敷地はかなり広いので、歩くのにも一苦労。その為、無料のレンタサイクルも有りますので、是非ご利用くださいませ。
案内看板を見て、見所を確認。一番の見所の「外柵南門」に向かいます。
すぐに歴史を感じる外柵南門が見えてきますが、その手前にピンクの建造物が。それこそが「どごさでもドア」 なんともシュールな絵面ですな(笑)
折角なので、どごさでもドアを様々にパチリ。私的には、額縁代わりにして外柵南門を撮った写真がお気に入り。
しっかり「どごさでもドア」の名称も記されてました(笑)
その後は、外柵南門を潜り敷地内へ。外郭南門や政庁に方面に向かいます。
それにしても広大な敷地で、歩いて向かうのは結構大変。幸いこの日は好天で風も穏やか、春の陽射しが心地いいのでゆっくり向かうことが出来たのはラッキーでした(*^^)v
東建物では当時の人々の生活を想像し、外郭南門ではその迫力に圧倒されました。
階段を登り正庁入り口付近から見返った風景、天気のおかげも有るでしょうが本当に素敵な風景。しばし見惚れてしまいました。
正庁は柱の基礎しか残ってはおりませんが、それでも歴史の重みはしっかり感じることが出来ます。
他にも見所は有るのですが、昼休み時間内では回り切れずここで断念(-_-;) どごさでもドアは5月6日までの設置で今は無くなってますが、払田の柵はいつでも健在。是非...
Read more724年、現在の宮城県多賀城市に、その地名の由来となる古代城柵が創建された。 2024年で創建から1300年となるのを記念して、多賀城をはじめとする古代城柵遺跡で御城印が配布された。
多賀城(宮城県多賀城市) 牡鹿柵(宮城県東松島市) 伊治城(宮城県栗原市) 払田柵(秋田県大仙市・美郷町) 城輪柵(山形県酒田市) 胆沢城(岩手県奥州市) 志波城(岩手県盛岡市) 徳丹城(岩手県矢巾町)
御城印目当てに城柵巡りをした。
古代城柵は、律令国家が本州東北部に支配域を拡大するための拠点として造営した行政と軍事の機能を併せ持った施設と考えられている。
ーーーーーーーーーー 2024年10月11日
この日は、秋田県大仙市・美郷町にある払田柵跡に行った。
払田柵は文献資料に記録が残っていない無名不文の幻の城柵だが、雄勝城、第二次雄勝城とする説がある。
2017年度の払田柵跡の第151次調査で出土した漆紙文書に「小勝城」、「秋田城」の文字が確認された。 小勝城は、「続日本紀」に天平寶字4年(760年)創建の記録が残る「雄勝城」と考えられる。 一方、払田柵創建に使われた角材は年輪年代法による測定で、801年の伐採と判明している。 材木の伐採より、資料上の創建年が古いため、払田柵をそのまま雄勝城とすることはできない。 元々別の場所に造られた雄勝城が、現在の場所に移転されたとする説がある。
ーーーーーーーーーー 城柵巡りをした中で、ここの景色が一番良かった。
払田柵跡は、横手盆地北側の仙北平野中央部に位置している。 遠くから見ると、かつて政庁があった丘陵は、田んぼの海に浮かぶ小島の様だった。 周囲に高い建物はなく、丘の上からは遠くまで見晴らせた。
城柵があった当時の建物がいくつか復元されていた。 それが無ければ、大勢の人たちが暮らしていた時代があったとは思えない程、...
Read more古代城柵史跡。 2019年7月14日来訪。
見学できる範囲だけでも結構広いのに、実際の城域はもっと巨大な払田柵。その巨大な作事は、間違いなく地方政権では達成できない朝廷によるものである事の証左であるが、古文書等に記録がなく、その名称すら不明な幻の城柵。 払田柵は、真山と長森と呼ばれる丘陵地を囲むように、東西1,370メートル、南北780メートルの楕円形状に、高さ約4メートルの木柵で全体が囲われていた。内側の主要部の丘陵地帯も、取り囲むように木柵で囲われており、東西南北に門が設置されていた。主要部である長森には大路、政庁と思われる建物群の跡があり、その造営技術は律令官衙様式に則ったものであるとのこと。 柵僕の年輪から801年頃に伐採されたものである事がわかっており、桓武期の坂上田村麻呂による征夷事業によるものであると判明している。それなら何がしかの記録に残りそうな気もしますが…
878年の元慶の乱のWikiを見ると、出羽権守藤原保則、鎮守府将軍小野春風らによる寛政により乱は鎮撫された事への異説として、反乱の主導者の名前が明らかにされていない事や、未曾有の被害をもたらした筈である十和田湖火山大噴火の記録が文書で残っていない事から、実際は蝦夷の要求に従い、雄物川以北は蝦夷の支配地域となり、中央の記録に無い払田柵は、中央からの監視役の接待に利用した場所ではないかという説もあるそうで、素人目から見て面白いなあと感じました。
現地はとにかく広く、隅々までまわろうと思うと、結構時間を要しますが、復元された南門と木柵、政庁跡の平面復元等、見どころが多く、なんでこんなに巨大な遺跡が記録に無いんだろうかと、興味が尽きません。古代の謎を肌で感じられるよい史跡です。 景色が広々...
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