岩屋城址と、主将高橋紹運の墓(二の丸)は道路を隔てている。 1586年7月上旬、九州全土を手中に収めたい島津氏が忠長(16代当主義久の従弟)と伊集院忠棟を大将とした総勢5万(2万、3万とも。各方面軍併せて5万か)が、大宰府の北西に位置する岩屋城を半月ほど攻めて落とした城跡。紹運は大友家臣で立花道雪と共に風神(道雪)・雷神(紹運)と称された。 降伏勧告は計5回だったと言われ、島津側から3回、味方の実子立花宗茂と黒田孝高から、岩屋城が防衛に向かないために城を捨てて撤退せよという趣旨で1回ずつ受けているが、いずれも使者を丁重にもてなし勧告を断っている。 島津側は紹運の武将としての器量を惜しみ何度も送るも、紹運は「主家が盛んなる時は忠誠を誓い、主家が衰えたときは裏切る。そのような輩が多いが、私は大恩を忘れ鞍替えすることは出来ぬ。恩を忘れることは鳥獣以下である」と敵味方が見守る中で言い切り、敵味方関係なく賞賛の声が上がったと言われている。 偽の停戦交渉で時間稼ぎを謀ったとも言われており、最期は押し寄せる島津軍を巻き込む壮絶な割腹で玉砕したという。 墓所は家臣が開いた麓の西正寺など(他は、岩屋城二の丸跡、宗茂が建立した福岡県柳川市の天叟寺、孫の三池藩初代藩主・立花種次(統増の長子)が建立した福岡県大牟田市の紹運寺)。 道雪が紹運の長子宗茂を懇願された結果に養子に迎えた逸話が有名だが、実父、養父に負けず劣らず、その翌月には、西の高鳥居城・弟の高橋統増が籠っていた宝満山城などを取り返し、また、実父、紹運が島津軍に与えたダメージが大きかったため、部隊編成に時間を費やし、8月末立花山城攻略をあきらめ、撤退を余儀なくされた。 この親子の働きにより、秀吉軍20万の九州上陸が間に合ったことは言うまでもなく、また島津の九州制...
Read moreこの場所でイエスキリストの血潮を宣言しています。あなたの霊に直接、聖霊様がふれてくださり不思議を見せてイエスを信じるようになります。 朝晩は行かないほうが良いかもしれない。日中でも大激戦地跡独特の人をよせつけない雰囲気があります。敏感な人は階段や木の根でつまづかせようとする何者かの存在をふと感じるでしょう。全能の神をハレルヤとほめたたえながら上り下りすると安全。何もあなたに手出しできない。すれ違う人たちは悪魔を信じていないので神も知ることができず現実にいま生けるまことの神を信じてないのでイエスの御名の権威も持てずただこんにちは、と声をかけてくる。私とあともうひとりくらい、死から蘇った全地万物の王イエスキリストの御名の権威によって頂上から太宰府市を祝福し十字架の復活の勝利の血潮を霊の次元に宣言できる人がこの場所に召喚されますように。 こんにちは、でなく「神の祝福が盛大に増し加えられますようにイエスキリストの御名によってアーメン」と声をかける弟子にいつかすれ違いたい。
追記
あなたが下り、私が登りで声をかけられてもお返事できない場合があります。 追い込んでインターバルで歩いている場合もです。 ごめんなさいね。 すれ違った後、挨拶もしないなんて! と言われているのが聞こえると私も傷つきます。
冬場にTシャツで走っている私に手をつき出して呼び止められても 身体が冷えるので止まらないことを許してくださいね。 ごめんなさい。
あなたのことは神が覚えています。神があなたの心や思いではなく、あなたの霊に直接迫ってイエスをキリストと告白せざるをえないような不思議を必ず見せてくださ...
Read more天正14年(1586年)7月、高橋紹運は、島津氏の軍使に対して、
「主家が盛んなる時は忠節を励む者は多いが、主家が衰えた時にこそ忠節を尽くすのが真の武士である。貴殿たちも島津殿が衰亡の時になったら主(あるじ)を捨てられるのか? 武士たる者、節義を守らないならば、禽獣と何ら変わらないではないか!」(西国盛衰記)
と、答えたそうです。
(注1)禽獣『きんじゅう』とは、人間から見た動物のこと (注2)西国盛衰記とは、江戸時代中期に、京都の学者が戦国時代をまとめた書物
この岩屋城の戦いから、時は流れて280年余り。
慶応4年(1868年) 大政奉還の後、薩摩島津氏を中心とする官軍は江戸城を攻略せんとして、江戸に迫りつつありました。徳川慶喜は、すでに城を退き、自ら謹慎していました。
なんとか江戸が火の海になるのを食い止めようと、有名な勝海舟の前に、西郷隆盛と予備交渉を行ったのは山岡鉄太郎(鉄舟)です。
上意であるぞ と凄むばかりの西郷に対し、山岡は起死回生の一言を西郷に向けます。 「では先生、仮に世が違い、島津殿が間違って朝敵の汚名をきせられたならば、先生は島津殿を見捨てられるのか? 私は主君である慶喜殿を人質に出すなど決してできない。」
西郷は、黙り込むしかありませんでした。
この山岡の論法、高橋紹運の言葉と似ていると思いませんか。
山岡鉄舟は、剣術のみならず、大変な勉強家であったとされています。きっと戦国時代についての軍記物も多く読んでいたでしょう。
もしかしたら、高橋紹運の魂の言葉が、二百八十年の時を超えて江戸の街を救ったのかも知れませ...
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