This is a fascinating historical site. For starters, the road that leads to the museum is cobblestone. There’s parking just down the road or you can leave your bicycle by the entrance. Entry is ¥100.
Originally there were three homes or estates adjacent to one another. Now only one remains but you can still see the stone warehouses of the other two.
The buildings of this museum belonged to the Hoshino family who were merchants, members of the Diet and later on involved in the building of the railroad. As merchants they sent vegetables, beans, seaweed and other produce down the river to Edo to sell.
The home is impressive, but on regular open days only the first floor is open to the public. On one day per month, you can go up to the second and third floors! And once a year in August they do a night light up.
Having a third floor is unusual for wooden construction. These areas were used for entertaining.
Unfortunately for young children if you miss the dolls festival and children’s day displays, there isn’t much for them to get their hands on. Hopefully in the future someone will take the initiative to have an area of nostalgic toys for them to play with so a visit to the museum will be more enjoyable...
Read more「福岡河岸記念館」ですから、奇抜な黒塗り木造3階建ての離れにばかり目を奪われないで、ぜひ川べりの地味な福岡河岸跡にも注目してあげて下さい。(笑) 今の我々の感覚だと分かりにくいですが、昔は舟運が最先端の高速大量輸送手段だったのです。例えるなら目前の新河岸川は当時の新幹線のレールで、船着き場である福岡河岸は駅のプラットフォームといったところでしょうか。
陸上輸送で馬ならば、せいぜい米俵4俵が限界ですが、新河岸川で使われていた15メートル級の標準的な川船でも250~300俵は積載出来た、というから能力はケタ違いです。更にスピードもなかなかのもので、川越発江戸行きで午後3時発の便に乗ると翌朝の8時には千住に着いたそうです。テレビ東京の歩き番組のように、ひたすら徒歩で行くことを考えたら、素晴らしい時間と労力の節約になることが分かるでしょう。(笑) その舟運で富を成したのが、現在記念館となっている船問屋「福田屋」です。取引に使われた母屋だけでなく、台所棟、蔵、取引記録を収めた文庫蔵、そして接待に使われた木造3階の離れなどセットで丸ごと残り、当時の繁栄ぶりを今に伝えてくれます。 この丸ごと残っている、というのはなかなか珍しいんですよ。何故なら明治になると鉄道に圧されて船問屋はすっかり斜陽産業となり、建物を維持する事も難しくなってしまったからです。例えば「ゲゲゲの鬼太郎」で有名な水木しげる画伯の曾祖父は鳥取県境港の船問屋で昔はかなり繁盛していたのですが、画伯が生まれた大正頃にはすっかり衰退して見る影もなく、今は現地に何も残っていないようです。 ここが運良く残っているのは当主であった10代目星野仙蔵氏(当主は代々仙蔵を名乗るそうです。)が時代の変化に対応できる優秀な経営者で、銀行経営や東武鉄道の設立に参画するなどして富を維持出来たからです。 その東武鉄道が最終的に本業である船問屋のトドメを刺したことを思うと、なんとも皮...
Read more前回訪ねた際には残念なことに休館日だったので、施設外にあった看板をグーグルレンズで落としました(一部当方で修正)。
回漕問屋 福田屋
新河岸川舟運が本格的に開始されたのは、正保四年(一六四七) 川越藩主松平伊豆守信綱の時代になってからと言う。 福岡河岸は、享保十八年(一七三)頃から吉野半兵衛・吉野三之助 (江戸屋)・富田門左衛門の三軒が回漕業を始めたのが起こりで、安永二年(一 七七三)にはこの三軒の回漕問屋が江戸幕府から公認された。天保 二年(一八三一) 富田門左衛門に変わって福田屋の七代目星野仙蔵が回漕業を始め、これが福田屋の始まりである。天保十年(一八三九)、八代目仙蔵が鍛冶屋跡地 <現在地>を買い取った。回漕業を行うかたわら肥料・薪などの仲買商も始め、三富や武蔵野開発地域の農業生産の発達に伴って取引が増大した。明治初期頃、再建築された主屋を店として使い、荒物・酒の高い製茶機などを加え大いに繁盛したが回漕業(船問屋)は、明治末年に至って廃業した。
明治三十年代頃に離れ(二階建)を建てた十代星野仙蔵(安太郎) は、自宅に剣道場を新築して「福岡明信館」と称し、明治三十五年には剣聖と呼ばれる高野佐三郎より小野派一刀流免許皆伝を受ける。一方、仙蔵は政治家の道を歩み、明治三十七年衆議院議員に当選し国政に参与するとともに、当時著名な実業家の根津嘉一郎と知り会い、当地方念願の鉄道敷設計画をまとめることに成功。大正三 年の東上鉄道(現在の東武東上線)の開通に至るまで中心的な役割を果たした。なお、福田屋関係資料の内ふじみ野市指定有形文化財に左記の物件が指定されている。
一 建造物「主屋・離れ(三階建)・文庫蔵」 明治初期中期頃建築
二 古文書「福田屋文書」 江戸初期明治・大正期
三 歴史資料「福岡村戸長役場資料」 明治十五年~二十二年
四 民俗文化財「福田屋帳場道具一式」...