土師神社(どしじんじゃ)。藤岡市本郷。旧郷社。
主祭神:野見宿禰(のみのすくね)、天穂日命十四世の孫で土師部(はじべ)の祖。 通常、土師は「はじ」と読むが、当神社名では「どし」と読みます。 菅原道真の遠祖にあたる人物で相撲の元祖。
資料によると、 創建:年代不詳(奈良時代前後)。 『上野国神名帳』に「正五位上 土師明神」とある古社だそうです。
野見宿禰は、垂仁天皇の御代に、出雲から大勢の土師部をつれてきて、いろいろな埴輪を造り、その物象をもって殉死に代えることを進言し、殉死を防止したそうです。その功績により、土部の職に任じられ、土部臣の姓を賜った。
鎮座地の藤岡市本郷は、『和名抄』の「土師郷」に比定される土地であり、当社の北200mほどの位置に、国指定史跡の本郷埴輪窯址があり、そのことから、当地に野見宿禰を祖とする土師部の集団が居住していて、当社を祀ったと考えられているそうです。
当地の東には、埼玉県との県境の神流川が流れていて、境内からその堤防が目視できます。 その県境の神流川の向こう埼玉側の肥土廣野大神社は直線距離にして1㎞程しか離れていない。この肥土地区は元々上野国粶野郡村波爾(土師)郷内に属していた。神流川も今より東側の平野部を流れていたが、洪水等の災害により、流路が現在の場所に移り、元禄十四年(1701)から武蔵国に属するようになり、賀美郡肥土村に改称したという経緯がある。肥土廣野大神社のご祭神は野見宿禰の先祖と云われている天穂日命で、本郷土師神社と文化圏を共有する社と言えそうであり、古代の土師部の集団である出雲族の一族で、出雲から信州へ、そして東山道経由で上野国にたどり着いた一派と考えられている。 とあります。
参道を進むと、右手の広場に塚のような伏せ鉢状の相撲辻があります。 「土師の辻」は屋外相撲壇(土俵)で、日本三辻の一つだそうです。 (藤岡市指定史跡)
2019年10月20日の夕方参拝した時、氏子さんたちがお祭りの後片付けをしていました。 参道が100mはある長さで、やけに砂が盛ってあるなと思っていましたが、後で調べてみると、この日は10月の秋祭りの日で、流鏑馬が行われ、参道がその馬場だ...
Read moreこのお社は、地元では「どしさん」と呼ばれているそうです。 土師とは埴師(はにし)ともいい、土器を焼く技術を持った部族である土師部(はじべ)のことです。 この一族は、野見の宿禰(のみのすくね)を先祖としています。 彼は垂仁天皇の皇后が亡くなった際、お墓に殉死者を埋めるのではなく、土で焼いた馬や人形を埋葬することを献言しました。 これが埴輪の始まりと言われています。 神社の近くには、埴輪の窯跡もあります。 野見の宿禰はまた、相撲の神様とされていることから、こちらには小高い丘のような土俵があります。 この土俵は「日本三辻の一」と言われているそうです。 相撲の辻とは、屋外で相撲を取る場所のことであり、注連縄が張りめぐらされ、一種の聖地のようになっています。 ちなみに日本三辻とは、こちらの他には、摂津の住吉神社と能登の羽咋神社だそうです。 垂仁天皇の頃、大和の国に当麻蹴速(たいまのけはや)という力自慢の者がいました。 確かに相撲を取っては、誰も彼に敵う者はいません。 そこへ出雲の国に、野見の宿禰という大力の者がいると、天皇がお聞きになり、早速呼び寄せて相撲を取らせてみました。 熱戦の末に、野見の宿禰は当麻蹴速を打ち負かし、天皇からお褒めの言葉をいただくとともに、お仕えすることになりました。 こんな言い伝えから、彼は相撲の神様と崇められるようにな...
Read more創祀は不明。祭神は野見宿禰(相撲の神で、殉死を埴輪で代用することを天皇に進言…土師氏により、祖先として篤く崇められた)。朱塗りの両部鳥居から社殿まで、長さ100mはありそうな参道には砂が敷きつめられ(流鏑馬を奉納するため)、両側にはケヤキやスギの大木がズラリと並んでいて壮観。古色蒼然とした社殿の前に、滅多に見られない割拝殿があり、参道の正面に大きくなる赤い屋根がてっきり社殿と思いきや、おっとドッコィ社殿はその奥に鎮座ましましていた…。御神木は西側に聳えているケヤキの大木。境内のほぼ真ん中に日本3辻のひとつの土師の辻󠄀(土俵)が設けられている…。雰囲気が、どこかおおらかで牧歌的で、時間を忘れてしまいそうになる。社名は近くにある埴輪窯跡と関係がありそう…。「どし」と読む。 説明板なし。...
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