立花山城は標高368mの立花山山頂付近に展開する山城である。駐車場からの比高は約280m。山頂まで往復するだけでも約1時間半は必要であろう。 登山道は整備されており歩きやすい。 福岡県民に人気のハイキング(登山)コースで平日にも関わらず多くの人が登っていた。
立花山城は巨大城郭であり、主郭周辺部以外も各尾根筋などに多くの出城・出郭が広がっている。無数の郭群が確認でき、城域は東西約1kmにも及ぶという。 広範囲を見て回るとゆうに半日は必要だろう。
立花山城は非常に巨大だが防御遺構はそれほど目立たない。自然の要害を活用した部分が大きいのだろうか。また、各所に石垣遺構が残されており、最も城趾らしさを感じられる。 山頂の主郭部からの眺望は抜群に良く、福岡市街から博多湾、玄界灘まで広く見渡すことができる。一見の価値ありである。
立花山城は南北朝時代に大友氏によって築かれた。この大友氏分家はその後立花氏を名乗る。戦国期に立花氏は大友氏本家に反旗を翻す。鎮圧のため大友氏から派遣されたのが戸次氏である。鎮圧に成功した戸次氏は立花氏を名乗る。有名な立花道雪である。道雪の娘が立花誾千代であり、娘婿が立花宗茂である。 後に立花宗茂は島津軍の攻撃から立花山城を守り抜き柳川に転封となる。 代わって筑前は小早川隆景の領地となる。隆景は本拠地を名島城へと移し、立花山城は廃城になったと思われる。
立花山城は歩きごたえのある山城であり、その規模も雄大である。遺構はそれほど多くないが、歴史的に有名な城でもあり、城好きは一...
Read more立花山城跡 標高367m(比高280m)の立花山に城跡があり、北東にある登山口の駐車場から山頂まで徒歩35分程度です。案内パンフレットも設置されており登りやすい山城です。 当時の石垣も残っており、山頂からは福岡市街を一望できる絶景ポイントになっています。 【歴史】 九州統一に向けて進軍する島津軍は天正14年(1586年)7月27日岩屋城の高橋紹運以下763名の城兵を全滅させ、次に宝満城を落城させると立花山城へ進軍。 立花山城を包囲すると3000余の兵と共に籠城する宗茂に対して開城を勧告します。 宗茂は勧告に応じたと見せかけながら城の守りを固め、援軍の豊臣秀吉配下の毛利軍が来るまでの時間稼ぎをします。 秀吉配下の毛利軍が豊前に上陸し小倉城へ達すると止むを得ず島津軍は撤退します。 そこを宗茂軍は追撃し島津配下の諸将を討ち取って宝満城と実父高橋紹運が自刃した岩屋城も奪還したのでした。 これにより島津氏の九州統一の夢は破れその後豊臣秀吉に屈したのでした。 立花山城はその後入国した小早川隆景が名島城を築城し、その支城となりました。関ヶ原合戦後には黒田長政が入国し立花山城は廃城となります。
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Read more立花山城は南北朝期1330年に大友貞載が築城し以後代々立花姓を称した。 永禄年間、毛利と組くんだ立花鑑載は大友氏に滅ぼされた。 その後、戸次鑑連が入城し、島津軍を撤退させた統虎が継いだ。 秀吉の九州平定後、立花宗茂は柳川へ、小早川氏の重臣、乃美宗勝が入城。備前に移封で廃城。
立花城は井楼山(主郭)、松尾、白岳の三峯とイバノヲ·大タヲ、大つぶら、小つぶら、大一足、小一足、などの聞き慣れない名称と馬責、秋山谷、下山田城などの広大な城郭、曲輪群からなります。 井楼山には枡形虎口、石垣が見られ、福岡市街の眺望すばらしい。 井楼山の西側下部直下の曲輪には石垣、当時の瓦片も散乱。 さらに西側下部の小つぶらにも枡形虎口、石垣土塁が見れる。 井楼山から松尾山方面の尾根鞍部であるイバノヲ·大タヲには付近に複数の石垣、西側下部には広大な曲輪群が展開。
城域北側に広い無料駐車場があり先にトイレも、井楼山までは約40分ぐらい。 福岡城などの築城で石垣の大部分が消失したようですが、今でも結構あ...
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