平安時代この地を治めた佐藤庄司の居城の跡で、現在は公園になっています。詳細は大鳥城跡の投稿を参照下さい。
<大鳥城跡の投稿歴史背景補足> 事前の知識として、兵というものは古今東西、洋の東西を含めて”主”の指示に従い戦います。他の主に従うか、自力防衛しない限り、主に従わなければ領地、一族、郎党全て失うこととなります。主が考えが「正道」「邪道」にかかわらずです。例えば最近の例で護衛を指示された駆逐艦の兵は、それが不正な取り引きの護衛としても、主の指示に従い哨戒機が来たら追い払わなければなりません。それが兵です。もっとも佐藤兄弟と違って主は国民が選んだ方ですが…。
歴史的な所見を申しますと、「平治の乱」の後、平家は台頭し、その時期と同じくして藤原秀衡は鎮守府将軍、続いて陸奥守に命じられた時期でもあります。鎮守府は清原武則以来の任命で、中央では「蝦夷(えみし)」「俘囚(ふしゅう)」そして「夷狄(いてき)」といった差別用語で罵られていましたが、奥羽の豊かな資源と貿易によって得た富は計り知れないほど大きく盤石な基盤を構築していました。鎮守府将軍、陸奥守の職位は、平清盛の差し金とも言われます。これは奥羽を平家方に取り込む意図があったようです。この時期「金売りの吉次」が源氏の血統義経をつれて奥羽に来ます。 秀衡の曾祖父経清は前九年の役の折、源頼義、義家を裏切り敵方の安部家に寝返り、捕らえられ残虐な方法で処刑されます。秀衡の祖父清衡は異父弟家衡との内紛の際、源義家を頼り、勝利して奥州藤原家の祖となりますが、「金売りの吉次」はこの経清の登場前から名前があり、屋号として継承しているようです。 ここからは勝手な妄想ですが、吉次は中央が云うところの「蝦夷」の人間であり、吉次にとっては、源氏も藤原氏も侵略者と思っていて「呪詛」の念も継承していたように思われます。 秀衡にとっては、義経を預かることが本意であったかどうかは分かりませんが、先祖代々代々交流のある吉次の依頼を断る訳にもいかなかったのでしょう。しかし、これは平家と誼を結ぶ機会を失うことでもありました。 追われる身となった義経は、佐藤忠信の死後、金津の井上左衛門、如意の渡しの船頭に正体を見破られますが、それを切り抜け(前者は井上左衛門の武士の情け、後者は弁慶が義経を扇で散々殴打し疑念を晴らしたとあります。この話を併せて有名な「勧進帳」が生まれたと聞きます)秀衡の元に到着します。 手前の所見では義経が鎮西に逃れるあたりから、吉次が裏で糸を引いていて、漂流した後の経路や、忠信の死、井上左衛門や船頭への裏交渉は吉次一門が謀ったと考えます。 後にも書く機会があるかと思いますので今回はこの辺で終わりにしたいと思います。
余談ですが、奥羽藤原家の話は高橋克彦の「炎(ほむら)立つ」が傑作です。手前は小説を読む前に映像版を見ています。映像版は両親が受信料を払っている頃に、日本放送協会で大河ドラマと別枠(記憶が正しければ水曜日)に「真田太平記」と「炎立つ」が制作されました。どちらも歴史に残る傑作小説です。幼い記憶で不鮮明ですが「炎立つ」の方が演出が良かったと記憶しています。特に、萩原流行さんと蟹江敬三さんの配役と演技は絶世で、小説を読んだときに遅ればせながら凄さがわかりました。 民放では決してこの小説を映像化できるスポンサーは付きません。日本放送協会でないと映像化はできませんので、見られたのは幸運でした。また最近同局は制作スタッフを刷新して面白い番組を沢山放送しています。趣味の分野でも決して民法ではスポンサーが付かない番組を制作していて、存在は有効です。ただし、報道の偏りは頂けません。テレビを買ったら支払わなければならない料金体制で、政府の発表と異なる報道は反対派に滅亡の口実を与えることにもなりかねません。受信料を支払う者の意見として報道以外の放送に感謝しています。YouTubeが数多の所見映像を発信するようになった今日日、「輸出規制」の報道が「義経」にならな...
Read more土曜日昼に家族で訪問。 晴天にもかかわらず、他に人は居らず。 空いてて良いが、空き過ぎてて逆に不安になる。(何か霊的なものがあるのかと) 熊蜂が数匹徘徊しており早めに引きあげた。 子供は心配なので出来れば駆除して欲しい。
景色は...
Read more遠い昔昔家に帰るのに通った道今は新しい道路が出来てしまい通らなくなった道のすぐ近くにある公園ですが久しぶりに行ってみましたが綺麗に清掃されていて紅葉も綺麗でし...
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