築城年は明らかではないが、一般には5代目美濃国守護土岐頼忠の築城とされる。頼忠は応永4(1397)年に没しているので、築城はそれ以前の南北朝時代であろう。頼忠の子頼益も、のちに萱津に移るまでは父についで本郷城にいた。土岐氏の家臣、国枝大和守為助は土岐氏が本郷城を出た後に、ここを居城とした。為助は明応4(1495)年、船田合戦で兄弟5人と共に討死したが、国枝氏は代々この城を居城とした。
慶長5(1600)年、関ケ原の戦の時には国枝重元の弟修理亮政盛が城主であったが、西軍に属したため、東軍によって城も焼き払われてしまった。
本郷城は二重の堀と土塁を巡らせた輪郭式平城である。城域は不整形な台形を呈し、東西116m、西辺149m、東辺68m程度の広がりを有する。地籍図にはよくその形態を遺すが、現在内内郭の櫓台を含む35m四方程が存在しているにすぎない。遺存部分は町の史...
Read more池田町指定史跡本郷城跡 本郷城は不整形な輪郭式平城であり、かつては土塁と堀を二重に巡らせていた。 現在は本丸北西隅の櫓台があった部分のみが遺構として確認ができ、この部分が城跡公園として整備され石碑と案内板が建てられています。 尚、本郷城は稲葉良通(一鉄)の母は国枝正助の娘であることから、良通はこの城で生まれたと伝わっています。 【歴史】 南北朝時代に土岐頼忠が築いたと言われるが定かでない。 関ヶ原合戦時は国枝修理亮政森が城主で岐阜城の織田秀信に従っていたために東軍によって城は焼き払われた。 #お城 #城 #城跡 #城巡り #岐阜県の城 #岐阜県の城跡 #岐阜県...
Read more集落内の細い道に案内板あり。 さらに細い道をクランクした先にあります。 軽の車ならすぐ近くまで行けそうだが、クランクで脱輪しそうな気がしたのでやめた。 中央に櫓台跡。 周辺の道路は堀跡だったようです ...
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