一説に、あの伝説的な武内宿禰(建内宿禰)が被葬者ではとも言われています。こんな凄い古墳にもかかわらず、貴重な石棺の一部を直に見ることが出来ます。この石棺は、学術的には「組合せ式長持形石棺」と言います。石室は竪穴式で、副葬品には碧玉製品、翡翠製品、三角縁神獣鏡など貴重な品々が多数見つかっています。加えて、武器などの器財埴輪なども出土しており、4世紀型と5世紀型の二つの特徴をもった古墳であることが指摘されています。武内宿禰は5世紀前半に亡くなったと推定する研究者もいますが、もしそうならばこの古墳は寿陵(生前に築造される陵)と考えられます。 この古墳は葛城地方平野部の南端に位置しますが、その北端には河合大塚山古墳(河合町)があり、武内宿禰の子の葛城襲津彦が被葬者ではとも言われています。今でも親子で、葛城国を南北から見守り続けているのでしょうか?🧞♀️🧞♂️ 日本書紀を単純に読むと、武内宿禰は300歳ぐらい生きたことになり、その実在性に疑問が持たれています。具体的には、景行天皇から仁徳天皇までの五代にわたって活躍したことが記されています。しかし、古代の天皇の在位年数は、現代と違って短かく、平均在位年数は10年ぐらいです。時代はやや下りますが、例えば用明天皇から桓武天皇までの在位年数が確実な天皇で考えると、平均在位年数は約10年です。そう考えると、武内宿禰は当時としては長寿の70〜80歳ぐらいまで生きた人では?と推測することもできますが、どうでしょうか?🤨🤨 因みに、想像力の逞しい歴史家(研究者ではない)の中には、武内宿禰と神功皇后との間に生まれたのが応神天皇ではないかと勘ぐる人もいます。確かに、神功皇后が応神天皇を懐妊した経緯に関しては、日本書紀の記述に不自然な点が見受けられますからね。...
Read more「畝傍の道」巻一の五の十九 御所市大字室 室 宮山古墳(むろ みややまこふん)
室 八幡神社の中ほどの鳥居をくぐって大ぶりの階段を上がります。古墳ゆえ雑木林の中を登っていきますが、どんな古墳もこの瞬間はエキサイティングです。日本には4,700基ほどしかない「前方後円墳」の一つにチャレンジしているのですから、逸る心は抑えきれませんね。
私たちが踏み入れれるのは後円の墳丘部分です。通常はこちらの方が石室・石棺のポジションになり、かたや前方部は祭祀の場所に使われたと(諸説あります)云われています。もうすでに盗掘されていますので上部にぽっかりと穴が開けられています。
こちらの石室・石棺は兵庫県の加古川流域から切り出された石材を利用されたということですが、なぜそんな遠くの場所から?ましてや、益田岩船にあるように、亀裂が入ったものは当時の常識で使わないということだったらしいので、相当ハイテクな切り出し・運搬そして形成と設置の技術があったのでしょう、想像もつきません。
最終のポイント、室...
Read more五世紀前葉と「倭の五王」の時代で全国的にも巨大古墳が築かれた時期です。墳長238mで竪穴式石室に長持形石棺の大王墓は葛城襲津彦とみる立場が有力です。葛城襲津彦は葛城氏の始祖で娘の磐之媛は仁徳天皇の皇后です。
この古墳以降、周辺に多くの古墳が築かれ巨勢山古墳群と呼ばれています。巨勢山古墳群は総数約800余りの群集墳で大和では龍王山古墳群に次ぐ2番目の巨大古墳群です。葛城氏の本家が5世紀末に断絶した以降の6世紀中葉にピークを迎えます。
室八幡神社本殿横の鳥居から後円部へ登れます。墳丘上に有る南北2つの埋葬施設の南側が露出していて石室内も見られます。このクラスの古墳で墳丘に上れて石室・石棺が見学出来るのはココだけです。
橿原考古学研究所附属博物館では出土品や埋葬施設の復元模型などの展示コーナーが有ります。近くの御所市文化財課でも展示あり。
309号線に古墳へ向かう案内矢印が有りますが道も狭く神社には駐車場も無いので車は進入しない方が無難です。古墳南側にある桜田池公園横の広場に止められるので郵便局のある広めの道を...
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