丹生川上神社中社🐈 旧官幣大社
駐車場🅿無料 トイレ🚻有り 車椅子♿△補助者有りで階段まで 拝殿前までは難しい☹
丹生川上神社は下社、中社、上社の3社からなるお宮さんで、なかでもここ中社は 20年ほどまえに日本の秘密の秘密を発表されたお宮でもあります。これは後程☺
御祭神 日本書紀 罔象女神(みづはのめのかみ) 古事記 弥都波能売神(みづはのめのかみ)
当て字はたくさんあります 弥都波能女神、罔象女大神、水波能売命、水波能女神、水波夜女命、水速女命
別の名前は 神大市姫
水神様なので龍神として祀られることがあり、龍神姫としては古い龍神様となります🐈
僕らの神社考古学研究では古事記を偽書としております(日本書紀は嘘が多い古事記をちょっとだけ本当の事も付け加えたものとお考えください) なので現在の丹生川上神社中社の宮司様や 古事記研究者(古田先生を支持される方)には受入れられない内容となりますご了承ください☺
罔象女神は イザナギ、イザナミからは産まれていません。 父親は愛媛一宮大山祇神社の大山祇 母親は草野姫とか浦安姫と言います
大山祇(オオヤマツミ)は別名月詠命(ツクヨミ)が 壱岐にいた頃、失敗して格下げさせられたお名前です。
罔象女神はスサノオと結婚され、 女の子がお産まれになります。 支那ツ姫、アメノウズメとお名前を変えられて、1番有名なのは後に現在の伊勢の外宮様と伏見稲荷大社の稲荷さんとなる方です。 イザナギイザナミはスサノオだけです。皆さま歴史に騙されないように(笑)🙂
どの神社も口を封じてこられた日本の秘密のお話ですが、これを発表された丹生川上神社中社の前宮司はご英断です🐈
何を発表したかというと もともとここ中社の主祭神は龍神罔象女神です。これは表向き用に表に出されてらっしゃる神様ですがその奥にもう一人神様を隠してらっしゃいます。 豊玉彦です。通称 三足霊鳥八咫烏 この八咫烏こそがここ中社にもともと祀られていた主祭神で🐈このことは秘密とされてきたことですが、丹生川上神社中社様の前宮司様は
うちの(罔象女神)旦那さんは中将です。 と発表されました。
中将というのは中国の皇帝(漢の霊帝) に謁見することで日本国を治める貿易を許された者に贈られる称号です。 中将は漢の霊帝に挨拶に行かれてましたという内容を出され、八咫烏は中国と繋がっていたということが発表されました。 この発表により 八咫烏は日本を代表して謁見する人で 海洋民族。いろんな海洋都市と繋がっていた事実でもあります。 八咫烏の行動範囲は日本から琉球王国、韓国、中国、上海、ベトナム、インドネシア 、おそらくインド洋まで行ってたと思われます。 これだけ世界と繋がっていたという事実を発表されると中国韓国でも秘密にしている勢力があることから、八咫烏の存在も公言まかりならぬ。八咫烏が秘密結社と言われる所以ですが 今は世界に羽ばたくサッカー日本代表です☺
何故オオノヤスマロは古事記に嘘の系図を書き記したか…
何でもイスラエルに結びつけたがる人々がおられます、イスラエルユダヤの一派は日本に一番最初に入ってきているので無関係ではございません。古代イスラエルの王が日本に逃げ延び、アークを隠し アーク(三種の神器)を追ってくる奴らから隠すために偽物の歴史を用意しなければならなかった… ロマンを、追うならこっちです🐈 古事記編纂が終わったのが8世紀の712年ですこれはさすがに2%
呉の太伯の血を継ぐ天照大御神が邪魔だったので消したかった、しかし天照大御神と神武天皇を残しておかないと血を受け継ぐ系図が書けないので残す必要はあった、神武天皇は居なかったのでは説まで作り上げる 神武天皇の後2代から欠史八代というものを創作し先祖の高木大神系の格式を祭り上げることにより、本物の神武天皇を隠し 崇神天皇が自ら神武天皇と称し下剋上を成した既成事実の正当化。 これが98%これをやったのが 中臣と藤原。 辿れば多氏と同族の阿蘇氏。
藤原は天皇家を凌ぐ一大勢力まで上り詰め天下の藤原となりました。 系図はいじられてますよ☺
知らんけど(笑)
龍神が住まうこの場所に行って改めてすごいと思いました。ビュンビュン飛んでます 動画を上げとくので最新情報から見てみてください🐈
是非行かれてください🐈 ...
Read more御祭神「罔象女神(みづはのめのかみ)」は、水一切を司る神様で水利の神として、又は雨の神として信仰され、五穀の豊穣に特に旱続きには降雨を、長雨の時には止雨を祈るなど、事あるごとに心からなる朝野の信仰を捧げ、水神のご加護を祈られて来ました。 今を去る事千三百年余り前、第四十代天武天皇白鳳四年(675年)「人聲の聞こえざる深山吉野の丹生川上に我が宮柱を立てて敬祀らば天下のために甘雨を降らし霖雨(長雨の事)を止めむ」との御神教により創祀せられ、雨師の明神、水神宗社として朝廷の崇敬は殊の外篤く「延喜式」(927年)には名神大社に列せられ、又平安時代中期以降は、祈雨の神として「二十二社」の一つに数えられました。祈雨には黒馬を、止雨には白馬又は赤馬を献じ朝廷の特に崇敬する重要な神社でありました。763年より応仁の乱の頃までは朝廷よりの雨乞い、雨止めの奉幣祈願が九六度されていることが記録にみられることからも当社がいかに重要な神社であったかが伺えます。しかし、都が京都に遷り戦国時代以降はそのような祈願も中断され、丹生川上雨師神社もいつしか蟻通神社と称され、ついには丹生川上神社の所在地さえ不明となってしまいました。明治維新となり、丹生川上神社は何処かという研究調査が行われ、明治四年丹生村(下市町)、続いて明治二十九年川上村の神社が、夫々有力視され官幣大社丹生川上神社下社、上社とされました。蟻通神社こそが丹生川上神社だと大正十一年、当村出身の森口奈良吉翁の精緻な研究調査により丹生川上神社中社として官幣大社に列格され、ここに従来の二社は三社になったが、官幣大社丹生川上神社としては一社であります。そこでこの神社の社務所を当社に移して、下社、上社を統括して祭務を行ってきましたが、戦後神社制度の変遷により今日では三社別々の神社となったが、当社は「丹生川上神社」と登記されています。 本殿は江戸時代文政十二年(1829年)の建築で、東吉野村の文化財に、又瑞垣内にある灯篭は鎌倉時代の弘長四年(1264年)銘で、国の重要文化財に指定されています。 本殿の主祭神は、中央に罔象女神(みづはのめのかみ)をお祀りされ、相殿として東方に伊邪奈岐命(いざなぎのみこと)、西方に伊邪奈美命(いざなみのみこと)を配祀されています。 東殿の中央には(おおひるめむちのみこと)[天照大神]その東方に譽田別命(ほんだわけのみこと)[応神天皇]、その西方に八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)がお祀りされています。 西殿の中央には開化天皇と上筒男命、その東方に菅原道真と綿津見神、その西方に大国主神と事代主神をお祀りされています。 境内社としては、川向いの本宮山に摂社丹生神社として彌都波能売神(みづはのめのかみ)がお祀りされ、蟻通橋北詰には末社東照宮があります。又西殿の西北には末社木霊神社として五十猛命(いたけるのみこと)がお祀りされています。 追記)新年初詣でお伺い致しました。 当日の御祈祷申し込みにも関わらず快くお受け下さりました。 修祓の儀で神主様が祓詞を神前に奏上された瞬間にザワザワと一気に周囲の空気が変わり、何とも言えない神聖な気配に包まれました。 良い...
Read more丹生川上神社(にうかわかみじんじゃ)。奈良県吉野郡東吉野村。
式内社(名神大)、旧官幣大社。二十二社(下八社)の一社。 古くは「雨師明神」と称され、江戸時代からは「蟻通明神」とも称された。 大正以降、吉野郡川上村の丹生川上神社上社・同下市町の丹生川上神社下社に対して「丹生川上神社中社」とも称されるようになったが、これは上下2社が既に存在したために、これを「中」としたもので、位置関係や社格の上下を表すものではない。
御祭神: 本殿:罔象女神、相殿に伊邪奈岐命・伊邪奈美命 東殿:大日孁貴命・八意思兼命・誉田別命 西殿:開化天皇・上筒男神・大国主命・事代主命・綿津見神・菅原道真公 六国史では、「丹生川(河)上神」と地名を以て記され、具体的な神名を表すものはないが、古来朝野の祈止雨祈願がしばしば行われ、雨を司る水神であったので、これを記紀神話に見える罔象女神(みずはのめのかみ)や龗神(おかみのかみ)に充てるようになった。また平安時代初め頃から「雨師神」とも称されるようになったが、雨師とは風伯と並ぶ古代中国の雨乞いの神なので、これは唐風文化への傾倒による神名であることは明らかである。また、祈雨祈願の際には黒馬が、止雨の時には白馬(または青馬)が奉献される例であったが、これは馬を水神乃至はそれと密接な動物と見る観念に基づくものであり、また馬の色は、雨雲と黒、晴天と白という観念連合に基づく類感呪術であろう。 とあります。
資料によると、 社伝に因れば、鎮座地は神武天皇が東征の際に、天神の教示により天神地祇を祀り、戦勝を占った地である。具体的には、神武は天香具山の土で作った平瓮と厳瓮を川に沈めさせ、椎根津彥に川魚の様子を観察させ、丹(水銀)の鉱脈があることを知り、500の真榊で諸神を祀り、国を平定することにした。
白鳳4年(675年)に罔象女神を御手濯(みたらし)川(高見川)南岸の現摂社丹生神社の地に奉斎し、その後現在地に遷座したものと伝えるが、寛平7年(895年)の太政官符(『類聚三代格』所収)には、当時の丹生川上神社の祝や禰宜の解を引き、『名神本紀』という書に「『人声の聞こえない深山で我を祀れば、天下のために甘雨を降らし霖雨を止めよう』との神託により創祀した」との伝えがあることを記してる。吉田兼倶撰といわれる『二十二社注式』には、天武天皇の白鳳乙亥年(4年)に垂迹し、大和神社の別宮になったと記されているので、吉野と浅からぬ関係にあった同天皇によって創祀されたものとされている。古来大和神社(天理市鎮座)の別社とされ、祈止雨の霊験著しい雨師神として、朝廷から重んじられ、763年より応仁の乱の頃までに雨乞い、雨止めの奉幣祈願が96度されたと記録にみられ、宝亀4年...
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