京阪橋本駅から南側へ徒歩5分、広い芝生に大きな看板「国史跡樟葉台場」が見えます。
近付くと水堀を備えた西洋式の砲台の説明、慶応元年(1865)に江戸幕府が建造、大砲等を備えた敵からの防御拠点、これを台場と呼んだらしい。 当時、大阪京都を結ぶルートの関所として天皇攘夷派が京都侵入を取締る為に建てたとある。
慶応4年(1868)旧幕府軍(徳川慶喜、会津藩、新撰組)は鳥羽伏見の戦いで新政府軍(薩摩、長州、土佐藩)と激突。旧幕府軍は後退、立て直すため橋本陣屋、樟葉台場に集結する。しかし新政府軍に寝返った津藩(新藤藩)が対面の高浜からドカン!と砲撃、台場は新政府軍が占領するこになる。
その後、跡地は民間に売られ、姿を消す。但し、日本で唯一遺構が残った事から2011年に国の史跡指定を受け、今は立派な公園。盆踊りやら市民の憩いの場となったのです。
因みに対岸の高浜にも新藤藩の事も書かれた説明と石碑。こちら側の砲台跡の1つであるゴルフ場は既に廃業、草の原。伏見鳥羽の戦いは有名だが樟葉でも戦いが有ったことが書かれています。
ただね、樟葉台場跡は国の指定の史跡となるが、高浜砲台はゴルフ場も無くなり、こんなにも大きな差が出るのか?...
Read more全国でも数少ない河川台場の跡です。 幕末に幕府が反幕組織の入京阻止のため作ったものです(名目は外国船の遡上対策のため)。
この辺りは鳥羽伏見の戦いでも激戦でした。 鳥羽や伏見から撤退してきた旧幕府軍は淀城に集結して態勢を立て直そうとするも淀藩から入城を拒否され、その後橋本に結集、久修園院に本陣を置き、橋本陣屋(橋本駅南側の駐輪場やバスロータリーのあるあたり。当時焼けたからかわかりませんが、現在は「焼野」という字名になっています)やこの楠葉台場に陣取って戦いました。
しかし対岸を守備していた津藩藤堂家が突如として裏切り、高浜砲台(島本町高浜)から砲撃、楠葉台場から応戦するも空しく幕府軍は瓦解したそうです。
以前は農地になっていましたが、2011年に国指定史跡に指定され、公園として整備されました。 石碑も現在の位置に移設され、詳しい案内板も設置されています。 堀も保存され、土塁や区割りが植木によって表され、かつてあったであろう台場を想...
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