鎌倉時代初期、この地は、古市、今津等の市場や港町として賑わっており、古代山陽道と瀬戸内海に面した安芸国の流通・経済の中心地であった。承久3年(1221年)の承久の乱の後、恩賞として安芸国佐東郡を得た武田氏当主・武田信光は、この武田山の麓に守護所を建て、安芸国佐東郡の経営に乗り出した。しかし時代が下り、元寇や幕末の政情不安によって戦乱の雰囲気が高まり、正安元年(1299年)には桜尾城主平員家の攻撃を受け、佐東銀山城は落城した。このような状況下、所領の防衛に適した地に城郭を構える必要に迫られ、安芸国に下向した武田家当主・武田信宗によって、鎌倉時代末期に現在の武田山頂上域に建てられたとされる。
室町期には、安芸国へと進出を図る周防国の戦国大名・大内氏との激闘の舞台となり、幾度となくこの城を巡って攻防戦が繰り広げられた。
永正14年(1517年)、山陰の尼子氏と結んだ安芸武田氏当主・武田元繁は、毛利氏の西隣の吉川氏を攻めた。元繁は安芸有田で毛利元就率いる毛利軍や吉川軍と戦って元繁は討死したため(有田中井手の戦い)、これ以降安芸武田氏は弱体化に歯止めがかからなくなった。
天文10年(1541年)、毛利元就は吉田郡山城の戦いにて尼子軍を撃退。同年、元就は銀山城を攻めこれを攻略した(佐東銀山城の戦い)。この時、元就は夜間に火を点けた草鞋千足を太田川に流し、佐東銀山城に籠る武田氏に動揺を与えたという伝承がある(この伝承を裏付けるように、太田川の川岸付近にある広島市東区戸坂町には、「千足」の地名が現在も残っている)。銀山城には大内方の城番として冷泉隆豊が置かれた。
天文23年(1554年)、毛利元就は厳島の戦いの前哨戦として佐東銀山城を攻略。大内氏城番・栗田肥後入道は説得に応じて即日開城し、城は毛利の支配下に置かれた(防芸引分)。
以後、銀山城は関ヶ原の戦いまで毛利氏の支配下に置かれた。毛利元就の隠居城として使う予定があったものの、現実にそれが実行されることはなかった。後に広島城が築かれるとその重要性は低下し、毛利氏が関ヶ原の戦い後に移封されると廃城となった。
江戸時代以降も城地が荒らされることはなく、現在は周辺地域の住民よる保全活動により維持整備され、ハイキングコ...
Read more☆要注意 Googleマップの案内やと登山口に行けないです。『武田山憩いの森駐車場』ってGoogleマップで誘導するのをお勧めします
大河ドラマ毛利元就の時から興味があった『安芸銀山城跡』に初訪問しました。『武田山憩いの森駐車場』にバイクを置いてそこから小生の足で本丸まで40分でしたわ。めっちゃ急勾配で正直きつかったです。安芸守護武田元繁の居城で大河ドラマでは『今項羽』って呼ばれてましたな。超かっけ~w『Yukimura...
Read moreIkoinomori entrance was 150 meters above sea level, and the summit was 410 meters...
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