前々から興味があったが、近くなのでいつでも行けると思って、中々行かなかった伊奈氏屋敷跡を、本日次いでがあり、やっと訪ねることができた。史跡の周辺は道が狭く、車を停めるスペースは無いと思っていたが、現地の散策路マップを見たら臨時駐車場が記載されていたので、そちらに駐車した。(Googleマップに後日地点登録した)
行く前は大した見どころはないし、駐車スペースもないので、ざっと見て帰るつもりであったが、臨時駐車場に停められたので、一応散策路を巡ってみることにした。 すると驚き!堀や土塁が確り残っていた。それもかなりの規模である。堀を散策していると土塁に圧倒された。屋敷跡全体は周辺の湿地帯より若干盛り上がっている程度なので、こんな低湿地帯の中にこんな立派な土塁があるとは感動した。特に蔵屋敷跡西方の土塁、二の丸跡北方の土塁は見ものであるので、ぜひ一度訪れては如何か。
さて、伊奈氏であるが、出自は信濃国伊那群である。伊奈忠基[ただもと]の代に三河国に移り松平広忠に仕え、三河国幡豆[はず]郡小島[おじま]城を居城とした。その後、忠基の二男忠家[ただいえ]は永禄六(1563)年三河一向一揆に加わり家康の下を出奔してしまったが、天正三(1575)年長篠の戦いで功を上げ帰参を許された。
忠家の嫡男忠次[ただつぐ]は家康の嫡男信康の配下となり仕えたが、信康が武田との内通の罪で自刃させられると再び出奔し、縁者を頼って和泉国堺に逼塞した。天正十(1582)年本能寺の変が勃発すると、堺を遊覧中の家康の下へ傭兵を引き連れて現れ、家康の伊賀越えに貢献し再び帰参を許され、父忠家の旧領小島を与えられた。
天正十八(1590)年秀吉の北条征伐により後北条氏が滅び、家康がその旧領関八州(居城は江戸)に直ぐ様移封されると、忠次も武蔵国足立郡小室と鴻巣において1万3千石(1万石とも)を与えられ、ここ小室に陣屋を構えた。代官頭となった忠次は関八州の幕府直轄地を治め、検地や新田開発、河川改修などに活躍した。
慶長十五(1610)年忠次は61歳で亡くなり遺領と関東代官職は嫡男の忠政が継いだ。忠政は大坂の陣に従軍し冬の陣では外堀を埋め立てる普請奉行を務め、夏の陣では首級を30挙げるなど活躍した。しかし、元和四(1618)年34歳で亡くなり、所領と家督は幼少(8歳)の嫡男忠勝が、関東代官職は27歳の弟(忠次二男)忠治[ただはる]...
Read more埼玉県史跡です。
戦国時代末期に徳川家康が関東に入府した際、伊奈忠次がそれに従い北方の固めとしてこの地に屋敷(と言う名の砦)を築きました。
伊奈氏は江戸時代200年にわたる歴代の関東郡代として、利根川東遷事業や、荒川の締め切りを始め、関東各地で河川の改修や干拓・水利に携わるなど、まさに「治水のエキスパート」として、当時の世界最大の都市である江戸の基礎を築きました。
スーパーテクノクラートの家系であり、今で言う国土交通省事務次官を代々勤めた、といったところでしょうか。忠次はその初代であり、「伊奈流」と呼ばれる治水方法を確立しました。
言うまでもありませんが、伊奈町の由来はここから来ています。
敷地は東西350m、南北750mに渡り、土塁や掘の遺構が見られます。また、敷地を横切るジグザグの道は、当時の同じ道筋を残しています。
尚、最近になり徐々に整備が進んでいるようで、設置が「平成31年2月」と、ある意味レアな日付の案内看板がありました。
ニューシャトル丸山駅を降りてすぐに広がっており、さしずめどこぞのデベロッパーが謳う「駅直結の邸宅」です。 ちなみに丸山駅脇の草原からは障子掘が発掘されたそうですが、現在は埋め戻されています。山中城のように...
Read more徳川家康公の家臣で関八州(相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野の8か国)を治めた関東郡代伊奈氏の初代、伊奈熊蔵忠次(1550〜1610年)の陣屋跡だそうです。伊奈町を拠点として江戸幕府創立の基盤づくりや、治水対策、新田開発の灌漑工事、街道整備に貢献されたそうです。 兄忠政の1618年の死後、家督は忠勝が引き継ぎ、関東郡代職は次男の伊那半十郎忠治が引き継いで、川口市の赤山陣屋を1629年に築いて拠点として父の行っていた治水対策や新田開発を引き継いだそうです。 広大な屋敷跡は、赤山陣屋跡は寛政4年(1792年)、伊奈氏屋敷跡は明治3年(1870年)にどちらも払い下げられ、今は民有地の畑になっていますが、伊奈町の伊奈氏屋敷跡は、当時の土塁や堀などの地形が良く残っているように思えました。 川口の赤山陣屋跡は何度か行った事があり、伊那半十郎忠治については聞いた事がありましたが、父の伊奈熊蔵忠次の屋敷跡があるとの事で、ようやく訪れる事ができました。父子の話しがつな...
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