これまで戦国の風雲児「織田信長」の生誕地は那古野(名古屋)城というのが常識であり定説だったのですが、その後に発見された文献資料を根拠に今ではこの勝幡城が有力になっているのだそうです。だとすると信長は尾張の中心地ではなく、地理的に伊勢国に近い西よりの地で生まれた事になりますね。
要するに信長の出自の「織田弾正忠」家が、当時はまだその程度の存在に過ぎなかったのです。尾張国守護「斯波氏」の守護代「清洲織田氏」に仕える三奉行のうちの一人という立場ですから。 その後、この勝幡城を初期資本として父の信秀が一気に飛躍し、主家に匹敵するほどの力をつけていった訳で、弾正忠家の原点とも言える記念すべき城です。コレは見に行かねば(笑)。
実はずっと「かつはた」城と呼んでました(笑)...
Read more信長の出生地には諸説ありますが、ここにかつてあった勝幡城で信長さんが生まれた可能性が一番高いようです。父信秀もこの勝幡城で生まれたようです。築城は信長の祖父織田信定です。
この地は元々「塩畑(しおばた)」と呼ばれていましたが、縁起が悪いという理由で信定または織田信秀が「勝ち旗」の意で「勝幡」と改名したといわれています。
日光川の堤防の近くに石碑が建っています。日光川は、江戸時代に掘削して今の大きな川になりましたので、当時の勝幡城は、今よりも細い日光川の中洲に建っていたようです。
※稲沢市のウェブサイトによると、この石碑が建っている所は、城があったと推定される場所です。 ※最近知ったことですが、岐阜県恵那市にある山城「岩村城」の女城主「おつやの方」が生まれた城でもあります。この方は信長より年下の叔母でした。おつやの方は、後に裏切り者として長良川で信長に逆さ磔にされ処刑されました。
(感想)今ではここには石碑しかなく、とても寂しい所ですが、時代の流れを感じさせてくれて、私は好きです。でも、本当はここの知名度がもっと上がって欲しいと思っています。信長は、日本史上トップクラ...
Read more織田信長は天文3年(1534)にこの地で生誕しました。
勝幡城は永正年間(1504〜1521)頃に織田信長の祖父・信定が築城し、水運の拠点となりました。この地域は元々「塩畑(しおばた)」と呼ばれていたものを書き誤ったとも、縁起が悪いという理由で信定あるい嫡子・信秀が「勝ち旗」の意で「勝幡」と改名したともいわれます。
二重の堀で囲まれた館城であり、清洲三奉行の一つ織田家の拠点でした。商業地・津島や熱田を支配下に置いた経済力を象徴する平城で、天文2年(1533)に織田信秀によって招かれたとある公家は勝幡城の規模と出来栄えに驚いたといいます。
大永6年4月(1526)から7年(1527)6月の間に信秀は家督を譲られて当主となり力をつけ、戦国大名化し、天文7年(1538)、那古野城を攻め取って拠点を移すと、勝幡城には家臣を城代として置きました。
後に清洲城が勝幡織田家の本拠地となると、勝幡城は次第に衰退しました。織田家が戦国大名として発展する経済的基盤を作ったこの城は...
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