伊勢原観光協会にも 伊勢原大神宮 と紹介されているが、いましらべたところでは、正式には 神明社 であるようである。
ただ他の機会で読んだ本で、改称したとの記憶もおぼろげながらあるので、その本に出合ったらまた修正をしていこうかと思う。
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❸【参考 大山不動と日向薬師 1981年】 ❹【参考 史跡と文化財のこの町を語る 1981年】
伊勢原神明社 (1981年のこの神社の紹介文となる)
伊勢原では通称 大神宮さん と呼ばれている。 当社は伊勢神宮と同じように、神明づくりで、内宮と外宮があるのが特徴である。
むかしはこの辺りを 千手ケ原(せんじゅがはら) と呼んでいた、とある。 鎌倉の 湯浅清左エ門(せいえもん)は大山参りの途中で行き暮て、この千手ケ原で野宿をした。夜中にふと清水の音を聞き、住居に適することを知り、幕府に新田の開発を願い出たという。
1619年(元和5年)に草原を開発して住み着いたという。 やがて近在の人々や伊勢国_宇治山田の 山田曽右衛門(そうえもん) らも住み着き一集落ができたので、伊勢の大新宮を勧請して鎮守とした。 伊勢原の名はここから起こったといわれている。
境内に別当寺の 普化(ふげ)禅宗の神宮寺があったが、明治4年の 太政官布告(だじょうかんふこく) により普化(ふげ)禅宗は廃宗となり 神宮寺 は廃寺となった。 今は遺構がわずかに残る。神宮寺の建物はその後、恢立館(かいりゅうかん)と名を着けられ伊勢原小学校の基となったという。
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風土記には末社として11社記載されているが、1981年には春日神社1社となっている。
❷【参考 神奈川県神社誌 1981年】
神明社 (1981年のこの神社の紹介文となる)
元和6年(1620年)創祀。 此の年伊勢国の人来り開墾して、ここに住し、故国を慕い当社を建てたという。 正徳2年(1712年)に社殿を造営する 享保16年(1731年)大鐘鋳造 明治6年(1873年) 村社 に列される。 明治44年(1911年) 神饌幣帛料供進神社 に指定される
[鎮座地] 伊勢原市伊勢原244-1 [祭神] 天照大御神 豊受姫大神 [境内社] 春日神社 [例祭日] 9月21日 [境内地面積] 907坪
境内のお寺 神宮寺 があったとある。 普通に考えると神宮寺が神明社の別当をしていたと考えるが、風土記には 神明社は村持ち と書かれている。間違いなのかそうでないのか、すこし面白い。
❶【参考 新編相模風土記稿 1830年】
神明社 (江戸の頃のこの神社の紹介文となる)
伊勢原村の鎮守である。 内外の両社が並び建って、拝殿、神楽殿、供所(くしょ)等あり。 伊勢原村の開墾の頃に勧請された所にして、伊勢神宮の神廟になぞらえて、21年目毎に社頭修理を加え、遷宮の式がある。
[神体] 内宮の神体は銅像・・ 長さ6㎝(2寸)背後に運慶19代、大佛師田中刑部 正徳4年(1714年)5月吉日 とある。 外宮の神体は木像・・ 長さ13㎝(4寸1分)背後に運慶19代、大佛師田中刑部 正徳4年(1714年)5月吉日 とある。
△社僧神宮寺 神明社と同時の起立した。 [號]照見山と号す。 [宗教] 普化禅宗 武蔵国青梅 鈴法寺 末 [開祖] 雲晴風月 寛永13年7月11日 卒 [本尊] 宗祖_普化の書像を本尊とする
[鎮座地] 伊勢原村 [例祭日] 6月15日~16日の両日である [管理] 村 [末社] 愛宕虚空不動合祀(愛宕は村人加藤氏の者が勧請した。鐘楼あり、享保15年の鋳造鐘をかけている。序銘あり。文中に伊勢原村開墾および、本社勧請等の事が記されている。里人の言い伝えと同じである) 稲荷 三峯 恵比寿 道祖神 大黒秋葉 弁天 ...
Read more伊勢原市のシンボルとも言える神社⛩️ですね! 境内には、お伊勢さんの「外宮」と「内宮」が鎮座しております。また、同じく境内には、旧神明社(大神宮)管理の別当の寺が置かれていました。いまは、「照見山神宮寺遺跡」の案内板が御神木の大ケヤキの足元で静かに、今も地蔵菩薩立像が変わりなく見守っておられます。
社号:伊勢原大神宮 祭神:天照大御神(内宮)、豊受姫大神(外宮) 境内社:春日神社、稲荷総社 住所:伊勢原市伊勢原3-8-1
【新編相模国風土記稿による伊勢原大神宮の由緒】 (伊勢原村)神明社 村の鎮守なり、内外の両社並び建り、拝殿・神楽殿・供所等あり、内宮の神体銅像、長二寸、背に運慶十九代、大佛師田中刑部正徳四年午五月吉日と彫れり、外宮神体木像、長四寸一分、背後の銘上に同、當村開墾の頃勧請せし所にて、伊勢の神廟に擬し、二十一年目毎に社頭修理を加へ、遷宮の式あり、例祭六月十五・十六の両日なり、村持。 末社。愛宕虚空蔵不動合祀、愛宕は村民加藤氏の者勧請す、鐘楼あり、享保十六年の鋳鐘をかく、序銘あり、文中に當村開墾及本社勧請等の事を載、土人の傳に異ならず。 稲荷、三峰、恵比須、道祖神、大黒秋葉、辨天、天神、八幡、天王、金比羅。 社僧神宮寺。照見山と號す、普化禅宗、武蔵国青梅鈴法寺末、本社と同時の起立にて開祖雲晴風月、寛永十三年七月十一日卒、宗祖普化の画像を本尊とす。(新編相模国風土記稿より)
【境内掲示による伊勢原大神宮の由緒】 当社の創建は、江戸時代初期の元和年間(一六一五〜一六二四)のことであると伝えられております。 元和六年(一六二〇)伊勢の国の人、山田曾右衛門と鎌倉の人・湯浅清左衛門は、大山参詣の途中、千手原という松原に一夜の宿を求めたところ、水音を聞いて開墾可能であることを悟り、当時このあたりを支配していた中原代官成瀬五左衛門の許可を得て、開墾に着手したのです。そこにだんだんと粕屋あたりより人が集まり、現在の伊勢原市街の基礎が形成されました。曾右衛門は、この新しい開拓地の鎮守として、故郷である伊勢の神宮の神様を勧請し、奉斎することにいたしました。こうして創建された当社の御祭神に由来して当地は伊勢原と呼ばれるようになりました。 伊勢の神宮では、天照大御神が内宮に、豊受姫大神が外宮に、それぞれ奉斎されています。当社もこれにならい両宮が別々に奉斎されています。全国でも珍しい社殿構造は、江戸時代に編纂された「新編相模国風土記稿」にもみられ、創建以来の伝統として現在も受け継がれております。境内には神宮遥拝所が設けられ、当地より伊勢の神宮をお詣りすることができます。(境内掲示より)
【照見山神宮寺遺跡】 伊勢原の町が開かれたのは江戸時代のはじめ、元和年間(一六二〇年頃)と伝えられています。旧神明社(大神宮)創建と同じころ、神社の管理に当たる別当寺が境内に置かれ、それが照見山神宮寺という普化禅宗の寺でした。 普化宗は中国(唐)の普化禅師を祖として、鎌倉時代に禅僧と共に渡来したと言われ、尺八の音と結びついて広まりました。 普化宗の僧は虚無僧と呼ばれ、江戸時代に入ると徳川幕府の庇護もあって武士が入門し、寺の通行手形を持って全国往来が自由でした。 天蓋をかぶり、免状(本則等)をふところに尺八を吹き、托鉢吹禅をしながら各地を歩いて修行を重ねました。 虚無僧が吹いた尺八の曲は、無名の人々によって吹き継がれ、今日に至っています。 普化宗は、明治四年太政官布告により廃宗となり、神宮寺の建物は明治七年には、一時期、伊勢原小学校の前身として使われましたが、今は境内に石灯篭を残すのみです。 照見山神宮寺は活惣本山鈴法寺(東京都青梅市)末寺頭として相模、足柄、小田原、伊豆一円を寺場とし巡回した記録が残されています。 鈴法寺で幕府と普化宗についての多くの記録を残している嘯山勇虎をはじめ神宮寺歴代の墓は大福寺にあります。(照見...
Read more伊勢原駅を北口に降りると、デカい鳥居がお出迎えするんですが、これは、大山阿夫利神社の参道スタートの鳥居で、伊勢原大神宮さんの参道ではありません。ただ、僅かですが短絡路にはなりますので、ここを抜けて県道に出て北へ向かっていくと、右手に境内地が見えてきます。クルマの方は、R246を駅入り口で左折すると、すぐに境内車寄せ(狭い)にアタマから突っ込めます。歩きの方は、カフェが目印。このカフェ、「とこわか」と言って、もぉ いかにもお宮然とした建物で、神社直とゆうのがわかります。和の茶店なので甘味だけを一通りそろえていまして、ところてんとか磯辺焼きなどのしょっぱいものは置いていません。 境内の南側が くの字...
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