鹿島神宮の境外摂社で、御祭神は武甕槌大神の荒魂。
境内にある由緒案内がわかりやすいので、それを引用。
「鹿島の大神が初めて天降り給いし所が神野の跡宮で、本宮の祭の前日これを祭るとし、また、奈良春日に御分霊の際、ここから鹿島立ちされたとの伝えもある。 また、この社の別名を「荒祭の宮」という。荒祭の宮は荒魂を祀る社の意味であるが、同時に荒祭は現祭(あらまつり)、生れ祭(あれまつり)の義であり、神の降臨、誕生、出発を意味している。 このように起源あるいは社名については、いろいろな伝承があるが、その創始は本社鹿島神宮と先を争うほど古くまで遡ることができるといえよう。」
また、この案内板によると、この宮の傍らに、かつて亀卜によって選ばれた女性祭主(物忌)が住んでいたという。 伊勢神宮などにおける斎王と同じように神に仕えるのだが、明治維新の前まで行われていたとのこと。
さて、ここから東に少し行ったところに、神野向遺跡という国指定史跡の鹿島神宮境内附郡家跡(かしまじんぐうけいだいつけたりぐうけあと)があります。 鹿島郡の郡家は常陸國風土記によると、初めは沼尾にあったが、710年頃に現在の神野に移り、900年頃まで機能していたといいます。
そして、沼尾には鹿島神宮摂社の沼尾神社があります。沼尾神社は香取神宮の御祭神である経津主神を祀り、常陸國風土記では鹿島神宮と坂戸神社、沼尾神社の三つをあわせて香島の天の大神と称えた、と記載があります。鹿島と香取の両大神は沼尾からそれぞれ、鹿島神宮と香取神宮に移られたという伝承があるので、沼尾神社は鹿島神宮の元社の一社といえます。
以上の通り、この跡宮に初めて天降り給うというのは、沼尾から神野への神霊の移動があったことを示しているのでしょう。そしてその時期は沼尾から710年に郡家が神野に移された時、と考えても良さそうです。 さらに言えば、710年頃に沼尾から経津主命が香取に遷座したとも言えそうです。
春日大社への御分霊については、春日大社側の社伝では神護景雲2年(768)に藤原永手が鹿島の武甕槌命と香取の経津主命、枚岡神社の天児屋根命・比賣神を併せて祀ったことを創祀としているので、鹿島神宮境内附郡家が機能していた768年に、郡家の近くの現跡宮から春日大社に分祀があった、ということになります。
この跡宮の歴史は鹿島神宮境内附郡家ととも...
Read more御祭神は武甕槌大神の荒魂。神武天皇17(前643)年創建。神護景雲元(767)年6月大和国春日社へ遷祀の跡宮跡を「跡宮」と改む。当地は、鹿島の大神が初めて天降られた処であり、本宮の祭の前日にこの社を祀るとし、春日大社へ御分霊の際はここから鹿島立ちされたとされるほど重要な場所です。明治10年鹿島神社の摂社となる。 また、当社の傍らに「物忌」と呼ばれる鹿島神宮の女性祭主が普段から住んでいた「物忌館」がありました。物忌は、童女の時から生涯独身で鹿島神宮本殿の内陣で奉仕しする鹿島神宮大宮司よりも上位の最高神官で、物忌館から異動する際は、輿に乗って男性の目に触れることがなかったそうです。 ”鹿島ノ本宮”と呼ばれる大生神社(潮来市)の御由緒と関連する(或いは微妙に異なる)ところも多いですが、してみると、大礼祭の際には、物忌は当地(神野)の井戸で身を清めて出輿。沼尾神社(鹿嶋市沼尾)の岸辺から舟に乗って大生神社へと巡行されたのでしょうか。 アクセスは東側の道路より、一の鳥居と社号標がありますのですぐ分かるでしょう。鳥居の先は右側は生垣。左側は建売住宅が並びます。やがて右手の生垣が切れ、なぜかスチールの門扉だけがポツンとあって、狭いコンクリートの径がありますが、その先は四方を板に囲まれ、中には敷石があるばかり。こちらが物忌館跡に違いありませんが、これでは一間分だけの広さにしか見えません。社殿はもっと奥、涼やかなる樹叢の中、立派な御本殿が鎮座していらっしゃいました。拝殿はありませんが、見上げる大きさです。鹿島神宮も素晴らしいのですが、当社も負けず劣らず淸洒の地、社木森々然とし風色閑雅なる御神域です。参拝で...
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