駐車場、トイレ、散策道など、公園としてキレイに管理されています。NHK大河ドラマの内容とつながります。 武田と徳川の二度にわたる戦いで、両雄の幾末を決定付けた戦いであった。2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(147番)に選定され、国の史跡にも指定されている。 「高天神城の戦い」は、一回目に先駆けて、武田信玄が駿河平定後、三河・遠江方面へ手を伸ばし、元亀2年に2万5000の大軍を率いて三河・遠江に侵攻し、その際に高天神城を攻めたが、後略難しと判断し同日直ぐに撤退した。この戦いを含めば、三度「高天神城の戦い」はあったことにはなるが、一般的には信玄による攻略戦は含まれない。 天正元年(1573年)高天神城攻略の足掛かりとして、武田勝頼は馬場信房を遠江に派遣し、諏訪原に築城を始めた。この城が昨日訪れた「諏訪原城」で、徳川家康はこの築城を黙認せざる負えなかった。翌年の天正2年(1574年)5月、武田勝頼は2万5000人を動員し、小山城を経由し、遠州東部における徳川方の拠点である高天神城に攻めかかった。守る徳川勢は城方の小笠原長忠以下1000人であった。 小笠原長忠は徳川家康に救援を求めたが、信濃から南下する武田の別働軍に備えていたので、家康は織田信長に救援を要請した。この間に高天神城は、武田軍による攻撃で西の丸を失陥し、兵糧が窮乏して落城の危機に陥り、6月14日ようやく信長の援軍が岐阜を出陣し、17日に三河の吉田城に到着したにもかかわらず、城内で高天神城を本拠とする国衆・小笠原氏助(信興)が武田勝頼に内通して反乱を起こし、小笠原長忠は持ちこたえられずに降伏した。この戦いでは、守将である小笠原信興がその他の将と共に籠城したが、5月以降の再三の援軍要請も主君の家康には全く応える気配がないまま約60日籠城し、しかし武田方の力攻めに郭を次々と落とされ本間氏清や丸尾義清が討死したため、城は主郭のみを残すのみとなった。そこで、城兵の生命と引き換えに開城した、という経過がある。 武田方に降伏を希望した渡辺信重・伊達与兵衛(伊達宗春)・松下範久らの将は配下に加え、徳川に帰還を希望した大須賀康高・渥美勝吉・坂部広勝・久世広宣らの将はそのまま退去を許し、武田氏の配下に降った将には、姉川の戦いで活躍した「姉川七本槍」の前の高天神城の城主・小笠原氏助(うじすけ・信興ような有名者が含まれ、この小笠原信興もまた徳川を見限り武田氏に降り、駿河東部に移封された。 この後、7年間城内の土牢に監禁されていた大河内政局は、二回目の「高天神城の戦い」で、家康により助け出された。 城は急峻な山肌を持つ嶺の最上部に位置し、この山肌の坂を登ることは今でもできない。試したが、ずり落ちるのみである。よくできた守りに徹した城であることが分かる。 ここは戦国史を思うとき、その後に及ぶ影響が大きく、そのうえ難攻不落の要塞、武田家滅亡はここにありと言えるほどの大戦であったことに気は踊り、城跡を歩きながら、立ち並ぶ案内の看板を熟読し、その要塞ぶりを感じながら、面白い城廻となった。 前回より7年後、天正8年(1580年)10月「第二次高天神城の戦い」が始まる。8月までに徳川による「高天神六砦」と呼ばれる小笠山砦、能ヶ坂砦、火ヶ峰砦、獅子ヶ鼻砦、中村砦、三井山砦が完成し、武田の高天神城への補給路が断たれた。 10月に徳川家康は5000人の軍勢を率いて高天神城奪回を図った。家康は力攻めではなく、城を囲んで周囲に鹿垣をつくり、兵糧攻めを行った。 当時の城将は今川旧臣の岡部元信だったが、武田勝頼は城方の苦境に対し援軍を送ることができなかった。前回の落城とは全く逆に、勝頼は岡部元信の救援要請に応じることができず、結果として岡部以下の多くの将兵を見殺しにした。これで武田家家臣たちは武田氏の威信を致命的に失墜した。高天神城の岡部長教(岡部丹波守妻幸と同じらしい)ら籠城衆は、何度勝頼に応援を依頼しても音沙汰がなく、籠城側が既に早い時点で降伏の意思を家康に伝えていたにも関わらず、籠城戦を長期化・劇的なものとすることで、「援軍の出せない勝頼」を宣伝し、勝頼の声望を意図的に下げようとした信長の策略だったのではないかとの指摘がある。それなのに前回の高天神城落城(第一次)の際に援軍が送れずに見捨てる形となり、声望を著しく低下させたのは徳川家康であり、そして信長その人本人であったにもかかわらずだ。 城主岡部長教は天正9年(1581)3月22日、血路を開くため、ついに城内から全員が討って出たが玉砕された。 実に壮絶な戦いだった。死者730余名が堀に埋まったという。家康は戦い終って城内を検視し、城郭を焼き払って浜松城へ帰ったといわれる。 翌年、武田勝頼は甲斐大和の天目山の山中で自刃し武田氏は滅亡した。この時、天目山まで伴をする家臣はほとんどいなく、早々に武田家を裏...
Read more掛川城から高天神城(別名:土方城)跡へ向かった。この城跡には2009年8月にも訪れているので2回目である。一応私の主義として、「1度訪れた城・史跡より未見の城・史跡を優先する」というのがある。しかし前回来た時に運悪く、井戸曲輪から二の丸に抜ける崖路が進入禁止となっていて、堂の尾曲輪や長大な横堀等見学できなかった。それで今回は迷ったが、未見の小山城・滝堺城等の城跡や塩買坂付近の史跡よりもこちらを優先した。
高天神城への登城は、追手門筋からと搦手門筋からの二通りある。どちらも駐車場が整備されていて問題ないが、後者の方が道程も短く道も整備されていて一般観光には向いている。山城が好きな人は前者、追手門筋からの登城がより城跡巡りをしているようで好い。私は車を南口駐車場に停めて、追手門筋から登城した。
高天神城の魅力は、武田氏と徳川氏(織田氏が支援)とが遠江制覇の重要城郭として、10年弱に渡り奪い合いを繰り返した古城であり、現在もその城の縄張り(一城別郭[いちじょうべっかく]構造で、井戸曲輪を境に天然の要害の東峰と技巧を凝らした西峰からなる)を素人でも確認でき、また、史跡から攻防時の伝説ロマンを感じられるところである。大河内政局[まさちか]石窟、甚五郎抜け道(犬戻り猿戻り)は特に好い。西峰の袖曲輪跡に残る天正2年戦死の跡碑、堂の尾曲輪の西崖下の100mを超える横堀なども見どころである。
武田VS徳川の主な攻城戦は現在2回が通説になっているが、3回という説もある。 まず、永禄3(1560)年に桶狭間で今川義元が織田信長に討たれると、今川方の国衆であった高天神城主小笠原氏興・氏助(氏助は後に信興と改名、別名:長忠という)父子は、徳川方に付いた。
攻城戦3回説の第1回は、武田信玄が元亀2(1571)年、徳川方の高天神城を2万の大軍で攻撃したというものである。この時信玄は小笠原長忠の果敢な突撃を受けたので、無理をせず軍を引いた。しかし近年の研究ではこの信玄の遠江侵攻の存在を否定する見解が多いということである。・・・良く耳にする「信玄も落とせなかった高天神城を勝頼が落とした」という言い伝えはどうなってしまうのか・・・。
2回説の第1回目は、天正2(1574)年である。武田勝頼が2万5千の大軍を率いて小笠原長忠が守備する高天神城を陥落させた戦いだ。この時大河内政局ドラマや西峰の戦死ドラマが生まれた。長忠初め城方は最初頑強に防戦したが、家康からの援軍も得られず、遂に勝頼の温情的な調停に伏した。城兵は助命され、長忠は富士の裾野に1万貫の所領を与えられ、他の城兵も武田方に付くか徳川方に留まるか自由となった。武田方に付いた武将も多くいたが、大須賀康高など徳川方へ帰還した武将もまた多くいた。勝頼は君主としての大きさを遠江の武将に示し声望を高めた。 この後、勝頼は高天神城の西峰の弱点を補強する技巧的な大改修(堂の尾曲輪の横堀等)を行い、城将として岡部丹波守元信(元網、真幸、昌幸、長教、全て同一人物)を置いた。
2回説の第2回目は、家康の逆襲である。天正3(1575)年長篠の合戦で勝頼が敗れると家康は高天神城奪還を目指し、東への侵攻を開始した。武田方の兵站基地であった諏訪原城を奪い、高天神城の西の馬伏塚[まむしづか]城を修復、その南に新たに横須賀城を築城、更に高天神城を囲むように六砦をはじめとする20ヵ所にも及ぶ城砦群を築き、高天神城を孤立させた。そして、天正9(1581)年、籠城衆は勝頼の救援も受けられず、徳川方への降伏も受け入れられず、岡部丹波守以下多くの将兵が討ち取られた。この時に甚五郎抜け道の逸話が生まれた。
高天神城を巡る攻防には、まだまだ色々な興味深い逸話がある。高天神城はこの後直ぐに廃城となるが、故にその後改変されず、この中世末期(戦国時代)の土の山城が残ったのだろう。石垣の山城も好いが、この土の山城は貴重だ。...
Read more▼高天神城といえば、武田勝頼ですね。
▼というのは、この城をめぐっては、武田勝頼と徳川家康との間で、大きな戦が2回ありましたが、その2回の戦が勝頼に及ぼした精神面でのインパクトが、後の武田家滅亡へ導いたと言っても過言ではないからです。
▼第1回目の戦は、武田信玄が上洛途中で死んだ後、遠江で信玄に奪われた土地の再奪還に勤しんでいた徳川家康に、武田勝頼が2万5000の兵を率い、この高天神城に襲い掛かります。(1574年)
▼守るのは小笠原長忠以下のたった1000人。ただ、この城は、この戦より1年前に武田信玄がやはり同じ2万5000の兵で攻めた時も、同じような寡兵でありながら良く守り抜き、信玄は1日で攻撃を諦め、撤退したという過去があるのです。
▼なので、信玄の跡を継いだ勝頼としては、「信玄公でも落とせなかったあの高天神城を落すとは、勝頼公は信玄公以上なのかもしれない」という名誉欲しさに力押しに圧したのです。
▼家康も高天神城を見殺しには出来ません。ここが落ちれば遠江はほぼ武田勢のものになってしまうからです。ただ当時の家康は1万程度しか兵力を動員できなかったので、信長に援軍を要請します。
▼結果的に城主・小笠原一族の謀反等もあり、信長が駆けつける頃、高天神城は武田勢に占拠されます。
▼武田勝頼は、これで有頂天になってしまいます。「戦の神様とまで言われた父・信玄が落とせなかった高天神城を勝頼が落とした!」と強い自信を持ち、当時の武田四天王や二十四将という信玄の取り巻きだった重鎮たちの言うことを聞かなくなるのです。
▼そして招いたのが長篠の戦い。(1575年)
▼この戦で信玄の取り巻き重鎮らを無くした勝頼は弱体化していきます。信長も「武田家は放っておいても朽ち木が崩れていくように、内部崩壊するであろう」と宣言したように、勝頼の采配の基、家中の混乱が徐々に広がっていきます。
▼第2回目の戦は、そんな最中の1580年、徳川家康は6つの砦をもって高天神城の補給路を断ち、5000の兵で囲み兵糧攻めにします。
▼この時、城を守る武田勢の守将は岡部元信、ただ兵力はたったの1000。勝頼に援軍要請を送りますが、この時の勝頼は北条や上杉との関係、信長との和睦交渉等の諸条件が重なり、援軍を送れない状況だったのです。
▼実は、結構早い時期に岡部は家康に対して降伏の申し出をしていたのですが、信長から「高天神城の降伏を許さないように」という指示が家康に出ていたのです。
▼そのため、城兵の多くが餓死。最後のささやかな宴の後、岡部元信と兵688人は城を討って出、突撃を試みるも徳川勢にあっという間に討ち取られ、高天神城は2度目の落城をします。
▼なぜ信長は降伏を許すなと家康に指示をしたのでしょうか?それは、勝頼の威信を致命的に失墜させようという意図があったからです。
▼実際、この後、木曽義昌をはじめ、穴山信君、小山田信茂等、武田家譜代の大物家臣までもが勝頼に対して離反・造反を繰り返したのは、この信長の深慮遠謀によるものだったのです。
▼なので、高天神城は冒頭述べましたように武田勝頼にとって、最初の戦は有頂天、後の戦は自信喪失の上自滅という...
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