高知城へは約6㎞、JR高知駅まで約4㎞というこの辺り一帯は、往時「神辺郷」といわれ、土佐では最も古くから栄えた地方である。 縁起によると、桓武天皇が在位(781〜806)されていたあとの大同年間に弘法大師がこの地を訪れ、土佐国一ノ宮・総鎮守である高鴨大明神の別当寺として、善楽寺を開創され霊場と定められた。 以来、神仏習合の寺院として法灯の護持につとめ、神仏の信仰を啓蒙して栄えている。とくに土佐2代藩主・山内忠義公のころには武門の庇護をうけて寺は興隆し、繁栄をきわめた。だが、明治新政府による廃仏毀釈の難を受けて寺運は一変し、昭和4年に再興されるまで苦難の日々が続いた。その後、2ヶ寺で納経ができるなど混迷の時期を経て、平成6年1月1日を以って「善楽寺」は第三十番霊場として現在にいたっている。
本堂左隣の大師堂は大正時代の建立。ここの大師像は「厄除け大師」として知られ、厄年にお参りしたり、交通安全などを祈願すると霊験があらたかと伝えられる。また、境内には「子安地蔵堂」があり、弘法大師作といわれるやさしいお顔の地蔵尊が祀られている。難産で苦しんでいる妊婦を、大師が祈祷し安産させたという伝説があり、安産や子宝祈願にご利益があるといわれる。さらに水子供養の祈願にも参詣する人が多い。 本坊前は開放的な雰囲気が漂う。土佐一ノ宮の別当寺として栄えた古刹である。
土佐神社の道の、すぐ反対側にある寺です。
本堂の反対側に首〜上(首〜頭)に、悩みがある方が参拝すると良い、お地蔵様もいて、土佐神社と一緒...
Read more土佐神社の隣にあり駐車場も広いですが、大通りから駐車場に入ってくるのに狭い道なので対向車に気を付けてください。
【善楽寺の歴史・由来】 高知城へは約6km、JR高知駅まで約4kmというこの辺り一帯は、往時「神辺郷」といわれ、土佐では最も古くから栄えた地方である。 縁起によると、桓武天皇が在位(781〜806)されていたあとの大同年間に弘法大師がこの地を訪れ、土佐国一ノ宮・総鎮守である高鴨大明神の別当寺として、善楽寺を開創され霊場と定められた。 以来、神仏習合の寺院として法灯の護持につとめ、神仏の信仰を啓蒙して栄えている。とくに土佐2代藩主・山内忠義公のころには武門の庇護をうけて寺は興隆し、繁栄をきわめた。だが、明治新政府による廃仏毀釈の難を受けて寺運は一変し、昭和4年に再興されるまで苦難の日々が続いた。その後、2ヶ寺で納経ができるなど混迷の時期を経て、平成6年1月1日を以って「善楽寺」は第三十番霊場として現在にいたっている。
本堂左隣の大師堂は大正時代の建立。ここの大師像は「厄除け大師」として知られ、厄年にお参りしたり、交通安全などを祈願すると霊験があらたかと伝えられる。また、境内には「子安地蔵堂」があり、弘法大師作といわれるやさしいお顔の地蔵尊が祀られている。難産で苦しんでいる妊婦を、大師が祈祷し安産させたという伝説があり、安産や子宝祈願にご利益があるといわれる。さらに水子供養の祈願にも参詣する人が多い。 本坊前は開放的な雰囲気が漂う。土佐一ノ宮の別当寺として栄えた古...
Read more2022年4月4日に、自転車遍路でお邪魔しました。
善楽寺には山門はなく、大きな十一面観音が迎えてくれます。 この十一面観音は台座が3m、像は5mあり、高さ8mの大きさです。 善楽寺の本山である長谷寺の「長谷観音」をモデルにして作られたそうです。
善楽寺は、810年(大同5年)に弘法大師が高加茂大明神(現在の土佐神社)の別当寺として神宮寺とともに創建したといわれています。 応仁年間(1467年~1469年)に兵火によって焼失しましたが、2代目土佐藩主の山内忠義の庇護を受けて栄えました。 本堂の前には「仏足跡」がありました。 仏足石は足腰に御利益があるので、仏足石を撫でた手で自分の足腰をさすると良いそうです。 大正時代の建立の大師堂に祀られる大師像は、廃仏毀釈の荒波を逃れた尊像で、厄除大師として有名です。
最近の2004年まで、65年間にわたって「30番札所が2つある」時代があったそうです。 善楽寺は明治初期の神仏分離によって廃寺となり、御本尊は一時期第29番札所土佐国分寺に移されていました。 1875年(明治8年)に、先に復興していた安楽寺に御本尊が移されて安楽寺が30番札所になり、1929年(昭和4年)に善楽寺も再興します。 しかし、お互いが「30番札所である」と主張し、長らく30番札所の納経はどちらのお寺でも受けることができました。 1994年(平成6年)に、争いが決着して善楽寺が30番札所、安楽寺は30番奥の院という...
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