第11代垂仁天皇45年、天照大神を奉じて甲可日雲宮に鎮祀した倭姫命が鎮祭され、高座(たかくら)大明神と称したのが田村神社の始まりです。
「高座」とは神が降臨し、鎮座する神聖な場所という意味です。
この神社は平安初期の弘仁3年(812)、嵯峨天皇の勅命により坂上田村麻呂の霊を祀るために創建され、中世にかけて田村麻呂の神格化が進み、「高座大明神」という名で広く信仰されました。
坂上田村麻呂は奈良時代末から平安時代初期にかけて活躍した武人・貴族で、日本史上初の征夷大将軍として、東北地方(蝦夷地)への軍事遠征を指揮し、朝廷の支配を東北に広げる礎を築きました。
鈴鹿峠の鬼である酒呑童子や大嶽丸を平定するよう嵯峨天皇から命じられた田村麻呂はたちまち悪鬼を平定し、「この矢の功徳で万民の災いを防ごう。矢の落ちたところに我を祀りなさい」と言って矢を放ち、矢の落ちたところに本殿を建てさせました。
この戦いは神仏の加護を受けた田村麻呂が妖術を使う鬼と激闘を繰り広げるという内容で、能や歌舞伎の題材にもなりました。
十一面観世音菩薩の石像を安置して鬼神討伐の祈願をした北向岩屋十一面観音(東近江市)、討伐した大嶽丸を手厚く埋葬したという首塚の残る善勝寺(東近江市)、鈴鹿山の山賊討伐の報恩のために堂宇を建立して毘沙門天を祀ったという櫟野寺(甲賀市)があります。
田村麻呂が亡くなった翌年の弘仁3年(812年)に嵯峨天皇の勅によって坂上田村麻呂をまつる祭壇が鈴鹿峠の二子の峰に設けられ、その10年後に現在地に移されました。
江戸時代を通じて田村麻呂の子孫である一関藩主田村氏の崇敬が篤く、重宝として田村麻呂所持の楚葉矢の御剣と矢鏃三個があります。
江戸時代には伊勢参宮とセットでこの神社に詣でる「田村詣」が盛んでした。
~坂上田村麻呂~ 天平宝字2年(758)、後漢霊帝の曽孫阿智王を祖とする漢系渡来人の東漢氏と同族とされ、弓馬などの武芸を得意とし、代々宮廷に宿衛して守護し、天皇の信頼も厚い坂上氏に生まれました。
延暦9年(790)早々から準備が始まった桓武朝第二次蝦夷征討では、征討軍10万人の戒具の検査を実施するため東海道諸国へと派遣されました。
昇進を重ね、延暦16年11月5日(797年11月27日)、桓武天皇より征夷大将軍に任ぜられ、東北地方全般の行政を指揮する官職を全て合わせ持ちました。
延暦20年2月14日(801年3月31日)、田村麻呂が44歳の時、征夷大将軍として節刀を賜り、軍勢4万を率いて平安京より出征し、9月27日(11月6日)に征討が終了、10月28日(12月7日)に凱旋帰京して節刀を返上しました。
陸奥の反乱を鎮める際、田村麻呂は大蛇や龍神を退治したとされ、岩手県北上市や奥州市胆沢では、田村麻呂が沼に住む龍を封じた場所として「龍ヶ沼」や「龍神社」が存在します。
翌年1月9日(802年2月14日)、胆沢城(岩手県奥州市)を造営するために陸奥国へと派遣されました。
戦闘が全面的に終結し、本格的な造営工事の着手ができるようになり、この二日後には諸国等10ヵ国の浪人4000人を陸奥国胆沢城の周辺に移住させる勅命が出されました。
戦乱による彼我の戦没者の冥福を祈るため、または蝦夷の教化のために坂上田村麻呂は僧侶を1人賜りました。
4月15日(802年5月19日)、根拠地を失い、周囲の蝦夷の族長も降伏し、進退がきわまっていた阿弖流為(アテルイ)は500余人を率いて降伏しました。
7月10日(802年8月11日)に坂上田村麻呂が付き添い、阿弖流為等は平安京に入りました。
その二日後、田村麻呂の助命もむなしく、阿弖流為は河内国で処刑されました。
胆沢城や多賀城(宮城県)など東北一帯の再編に関与し、国家統一と東北経営に尽力した英雄であるだけではなく、その後の律令国家体制の安定に大きく貢献し、中でも薬子の変でも活躍しました。
延暦25年3月17日(806年4月9日)、桓武天皇が崩御すると、同日中に皇太子・安殿親王が即位し平城天皇となりました。
この際、田村麻呂は身を伏し、慟して自ら立つこともできない安殿親王を抱きかかえて殿を下り、ただちに玉璽と宝剣(天叢雲剣)を奉ったといいます。
平城天皇からの信任が厚く、翌年に侍従に任じられました。
大同4年4月1日(809年5月18日)、平城天皇は健康上の理由で皇位を皇太弟・神野親王へと譲位し、皇太子には平城天皇の第三皇子・高岳親王が立てられました。
平城天皇の寵愛を受けていた藤原薬子と兄・藤原仲成は譲位に反対しましたが、4月13日(809年5月30日)に神野親王が嵯峨天皇として即位しました。
後に平城上皇は健康を回復し、藤原仲成に平城京を修理させ、12月4日(810年1月12日)に平城京へと移り住みました。
嵯峨天皇は大同5年(810年)3月に蔵人所を設置し、6月には平城天皇の治世で設置された観察使の制度を廃止すると、平城上皇は怒り、薬子と仲成が助長しました。
翌年9月6日(810年10月7日)、平城上皇は勅を出し、平安京を廃して平城京へ遷都したことで薬子の変が始まりました。
嵯峨天皇はひとまず詔勅に従い、坂上田村麻呂らを平城京造宮使に任命しましたが、その四日後に平城京遷都の拒否を決断しました。
仲成を捕らえて佐渡権守に左遷、薬子の官位を剥奪して宮中から追放するとともに、田村麻呂を大納言に昇進させました。
激怒した平城上皇は翌日早朝、挙兵し、薬子と共に平城京を発し、東国へと向かいました。
嵯峨天皇に派遣された田村麻呂は仲成を射殺しました。
9月12日(810年10月13日)に大和国添上郡越田村で、田村麻呂が指揮する兵が上皇の行く手を遮り、上皇は帰京し出家、薬子は毒を仰いで自殺し、薬子の変は天皇の勝利に終わりました。
4代の天皇に仕え、二度にわたり征夷大将軍を勤めて征夷に功績を残し、大納言へと昇進して薬子の変を鎮圧した田村麻呂はその半年後、平安京郊外粟田(京都市左京区)の別宅で54歳で生涯を閉じました。
死後は嵯峨天皇の勅命により平安京の東に向かい、立ったまま柩に納めて埋葬され、「王城鎮護」「平安京の守護神」「将軍家の祖神」と称えられて武神や軍神として信仰の対象となりました。
嵯峨天皇は田村麻呂の死を悼み「事を視ざること一日」と喪に服し、この日は政務をとらず田村麻呂の業績をたたえる一篇の漢詩を作る等しました。
また田村麻呂の死を惜しんだ嵯峨天皇は田村麻呂の遺品の佩刀の中から1振りを選び、その刀を朝廷守護の宝剣として御府に納め、坂家宝剣は歴代天皇に相伝されました。
現在、京都市山科区の西野山古墓が田村麻呂の墓所として推定されています。
生前、田村麻呂は北方鎮護の仏・毘沙門天の生まれ変わりとされ、自身は十一面千手観世音菩薩を信仰していました。
10世紀から11世紀にかけて北上川流域では田村麻呂と結びつけられた毘沙門天信仰が広まり、成島毘沙門堂、立花毘沙門堂などが次々と創出されました。
また、成島寺の十一面観音像の胎内銘には「縁女伴氏・坂上最延・承得2年(1098)2月10日像顕」とあり、も田村麻呂の末裔もしくは類縁関係のある人物が東北地方で活動していたとされ、天治3年(1126)にも奥州藤原氏政庁の一員として坂上姓を名乗る人物がいたといいます。
陸奥国の田村郡は、田村麻呂を祖とする田村氏が領してきたとされ、一時廃絶しましたが、江戸時代、田村清顕の娘で伊達政宗の妻愛姫の遺言により、伊達忠宗の三男宗良が田村宗良を名乗って再興されました。
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Read more真田戦記 田村神社 滋賀県甲賀市土山町北土山469 主祭神...
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御祭神は坂上田村麻呂公を主祭神として、嵯峨天皇並びに倭姫命を祀っています。
元々は近江國(滋賀県)と伊勢國(三重県)を通る鈴鹿峠の頂上国境近くに田村神社はありました。
古来には都(平安京)より東に進む東海道で三河や伊勢参宮(斎王の交代)する交通の要衝でした。
平安時代の886年(仁和二年)鈴鹿峠を越える道が開かれた。その年に行われた斎王繁子内親王の伊勢群行を機に、新しい道が作られ、当時は「阿須波道(あすはみち)」と呼ばれてた。 以後、伊勢と近江の国を結ぶ官道として栄えた。
言い伝えによると、「鈴鹿峠に悪鬼が出没して旅人を悩ましており、嵯峨天皇は坂上田村麻呂公に勅命を出してこれを平定させた」とあります。 それゆえに、交通の障害を取り除いて土地を安定させた坂上田村麻呂公の御遺徳を仰ぎ、弘仁3(812)年の正月、...
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