奥の細道 第13の段「安積山・信夫の里」 ここが当時の安積山とされます。現在は、奥の細道本文に「路より近し」とある通り奥羽街道にも近い、平坦で広い公園となっています。 禅門の恁麼(いんも)宜しく、訪問の後、気づいたのですが、「路」の本意は奥羽街道を指しているのではないのかもしれません。
奥の細道の旅は、歌枕の地、謡曲ゆかりの地を巡る旅でもあります。
”歌枕”とは和歌の題材となった場所を指します。 ”謡曲”とは能楽(のうがく)を指します。(”能”は、言葉で説明する自信がありませんので、ググって下さい)
現在では映像を遠隔に運ぶ手段がありますが、(当時の)活字、絵画、能と歌舞伎の時代では、現地に赴く事がどれだけの意味があることか、現代人では想像が追いつかないかもしれません。
ここ(安積山)は、 万葉集 采女の歌 「安積山かげさえ見ゆる山の井の浅き心をわがおもはなくに」 古今集 詠み人しらずの歌 「みちのくのあさかの花かつみかつみる人にこひやわたらぬ」 の歌枕の地になります。
ここで詠んだ句のない奥の細道を解釈するには、歌の意味を理解する必要あるのですが、この句の現代語訳は辛いですね。 胸襟を開きますと、手前私立理系の専攻で浪人時代最初の模擬試験で、国語と理科の”偏差値”で52開くという、一般の方が決して体験しないようなことを経験している者(理科に秀でたのは、高校時代、浪人時代に廻り逢った六彌太殿の後裔お二人のご高配に拠るものです。大恩は生涯忘れません)ので、的を射ない解釈になる可能性がありますが、あの頃より時間は流れ、やはり浪人時代に恩師の出会い, 僅かながら手前の日進月歩は有ったかと思います。また、 師曰う「尽十方界、尽十方界なるがゆゑにしかあり」(尽十方界:<手前訳>この世界)と伺いました。 判断は読者に委ねて、誤解を恐れず記載させて頂きます。
「かつみの花」の所以(ゆえん)は藤原実方にあります。 都では、端午の節句に菖蒲を軒に葺(ふ)く習慣がありましたが、こちらには菖蒲がありませんでしたので、かつみ(真菰<まこも>とも)を葺くことを指示します。「さらば、あさかの沼の花かつみという物あらん。それをふけ」(鴨長明”無名抄”より)ここで重要なのは歌枕である古今集の歌が実方の指示の前後いずれかですが、古今集が先(古い)としました。
実方は、歌人としても名を馳せていて、記憶が正しければ、清少納言と恋愛関係にあり、百人一首にある清少納言の「逢坂の関」の歌は実方のことを詠んだ歌とされます。(うろ覚え、信憑性低 上記と併せて文学史に対して調査が雑ですみません)
実方は奥の細道 第15の段「笠島」に登場する人物で、第15の段を待たずに書きますと、藤原行成に歌を揶揄されたことに腹を立て、行成の烏帽子を取るという暴挙に出ます。(当時烏帽子を取る事は、成人の人が公衆で裸になる位、極めて恥ずかしい行為でした)これを見た一条天皇は「枕詞にある陸奥の3松のうち、阿古耶の松の所在が分かりませんので、確認してきなさい」と陸奥守に命じられ多賀城に赴きます。いわゆる左遷人事です。 実方は都に戻るため、「阿古耶の松」を探し求めます。そんな折、塩釜神社の神が夢枕に立ち、「阿古耶の松」の所在を告げます。 お告げに従い、現地に向かいますが、怨霊の宿る道祖神の障り(馬上で道祖神の前を通ることを咎められているにもかかわらず、「我下馬に及ばず」と乗ったまま通過)に触れ、落馬して命を落とすことになります。
歌の現代語訳(手前訳)は 万葉集の歌: 安積山が写るほど薄いしなびた山の水で施すような意図はなく、酒(当時の酒は透明でなく濁ったもの)をもてなすことが本意ですよ 古今集の歌: 安積の沼の花かつみのような方に出会い、恋心が届きますでしょうか (現代語訳は極めて訝しいです)
前置きが長くなりましたが、曾良旅日記及び相楽等窮の記述に拠りますと、この辺には沼が沢山ありましたが、水田に代わってしまいました。というのが当時の状況のようです。芭蕉にとって「安積の沼の花かつみ」が何を指しているかが重要であったかと思われます。 これは本文の冒頭で地名「日和田」を「桧皮」に変えていることにも関係があるように考察します。 桧皮は瓦(塼)が入る前に使用された屋根材です。出雲大社をはじめ、有名神社の多くは現在でも桧皮が葺(ふ)かれています。火縄にも使われます(本当はこちらを書きたいが文学寄りに解釈します)。 本文に「かつみ刈る比(ころ)」とあるように、上記実方の「端午の節句に”かつみ”を軒に葺く」風習があるならば具体的に何かが分かった筈です。 加えれば芭蕉の興味は”かつみ”ではなく、藤原実方が求めた”阿古耶の松”であったように思われます。 古今集の歌の一節「花”かつみかつみ”る人」からこの歌を示唆していることを示すため、かつ、後に記載する実方の記述に対する序章として書かれていると推測します。 さらに手前の和歌の解釈が正しいとするならば、”かつみ”は空想の産物であったように思われます。 さらに、芭蕉は「桧皮」を用いていることから、”かつみ”は空想の産物である事を仮定していたように思われます。(興味のある方は是非、”春立てる≪霞≫の空に白川の関、(この段のそぞろ神)”の示唆、過去投稿の”相楽等窮宅”をご覧いただきたい)そして、仮定の通り見つからなかったということです。文学のことはよく解りませんが、実方程の技量をお持ちならば「さらば・・・」は”菖蒲の代わりになるものはない”(これが実方の先祖が”竹取物語”で文学的暴力<蓬莱の玉の枝>を受けたと示唆していたら…菖蒲に清少納言を重ねていたら…考えすぎですね)芭蕉の出発時点、そしてこの時点で”行持(さすがは清少納言を惚れさせる漢)として大路を築いた歌人”藤原実方への敬意を深く感じます。
今昔物語集の記すところ、狐と話す能力は遺伝しませんでしたけれど、 小さな王子様 大事なものは 目には見えないのですよ。 先生 ご無沙汰の無礼をご容赦下さい。 ”黄金色の麦“の色は...
Read more<安積山の歌>
「安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心を吾れ思はなくに」(万葉集)
<松尾芭蕉は奥の細道で安積山に立ち寄った> 「檜皮の宿を離れてあさか山有。路より近し。此あたり沼多し。かつみ刈比もやゝ近うなれば、いづれの草を花かつみとは云ぞと、人々に尋侍れども、更知人なし。沼を尋、人にとひ、『かつみかつみ』と尋ありきて、日は山の端にかゝりぬ。」 (奥の細道)
芭蕉の花かつみ探しの発端となったのが、次の歌
「みちのくのあさかの沼の花かつみ...
Read more郡山市日和田町の安積山公園に〔奥の細道あさか沼碑〕が建っている。 等窮が宅を出て五里計、檜皮の宿を離れてあさか山有。路より近し。此あたり沼多し。かつみ刈比もやゝ近うなれば、いづれの草を花かつみとは云ぞと、人々に尋侍れども、更知人なし。沼を尋、人にとひ、「かつみかつみ」と尋ありきて、日は山の端にかゝりぬ。 芭蕉は元禄2年(1689)5月1日、〔あさか山〕を訪れている。 ここで1日〔花かつみ〕を探し回ったようだ。 公園の前の道は奥州街道で、と...
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