ここから400m南西にあった古墳の石室を移築し、若干の石材などを補って復元整備を行ったものです。 墳丘の形状は円墳で直径約16m北側から西側にかけて周堀が巡っていました。 石室は上庄司原2号古墳と同じ榛名山給源の角閃石安山岩を用いたもので、形状は他の古墳と同様に両袖型横穴式石室ですが、石材の加工方法・石室の構築方法は、截石切組積(きりいし)という当時の最高技術を用いて作られた石室です。 石材は加工を行うときや、石室を構築する時の目安とした「朱線」が残っているものがあります。又、石材の 中には内面に「水磨き」を施しているものがあり、これらの石材を「間知積み(けんち)」しています。 石材の内面形状は基本的には方形ですが、意識的に凹凸の部分を作って石材を組ませています。 石室はすでに盗掘されていましたが、鉄製の鞘金具と銅製の帯金具(巡方・丸鞆(まるとも))が出土しました。 このうち銅製の帯金具は截石切組積石室としては群馬県内で始めて出土したものです。 截石切組積石室の古墳はこれまで僅か約30基が知られているに過ぎませんが、上庄司原4号古墳の石室は前橋市の宝塔山古墳や吉岡町にある南下A・E号古墳の石室などと共に、その中でも最も秀麗な部類に属しています。
(...
Read moreこちらの公園には、石室を覗ける古墳がありますが、昔からよく知られており、絶対に入ってはならないと、村人達は言い伝えてきたそうです。 この古墳の入り口から、深い穴は果てしなく続いており、越後の国に通じているとも言われていたとのことです。 また古くは、壬申の乱に敗れた大友皇子が、ここまで逃れて来て、隠れ住んでいたという伝説もあるそうです(^^) こちらの横室(よこむろ)という地名は、この古墳の横穴からきたようにも思われますが…実はアイヌの人々が住み暮らしていた穴居跡が由来のようです。 私の家でも、裏山の竹藪の下に横穴を掘り、野菜などを保存しています。この穴を「ムロ」といいます。 アイヌの人々が使った石棒なども発見されて...
Read moreスマホ検索で見たのと違って、まさかあんな急坂の狭い道にあったとは?ちょっとびっくりしました。おっかなびっくりで我らが愛車のヒカル号日産プレジデント(5M数十CM)の巨大な車体を四苦八苦してなんとか狭目の駐車場🅿️(5台位)に停車。古墳公園というだけあってスマホ検索で見たけど普通にトイレありました。今時のトイレというより一昔以上前の感じでした。渋かったー。古墳もトイレも両方共。相変わらずの夜間訪問、高台にあるこの古墳からは前橋の夜景が結構綺麗に見えます。小規模ではありますがちゃんとした古墳が3個あったので底々設備も整ってたし古墳公...
Read more