柏原宿は中山道六十九次の六十番目の宿場だ。 柏原は、もと豊臣秀吉の蔵入地。その後、徳川幕府の直轄地となるが、江戸時代中ごろの享保9年(1724年)には大和郡山藩領となって明治維新にいたる。この柏原が宿場として成立するのがいつのことなのか正確なところは不明だが、少なくとも慶長年間(1569年~1615年)には宿場として機能していた。天保14年(1843年)の人口は1468人、戸数344、本陣1脇本陣1旅籠22、町長13町(1417m)であった。 名物は伊吹艾(もぐさ)。伊吹山で良質のよもぎが取れたため、よもぎの茎を使うもぐさが入手し易かったようだ。今でこそもぐさは必需品ではないが、当時は旅の必需品であった。「初旅は もぐさも支度の 数に入り」と川柳でも唄われ、旅の必需品としても土産としても重宝された。 歌川広重の木曽街道六十九次の柏原宿の絵は、もぐさで財を成した亀屋左京の店頭風景が描かれている。最盛期は宿場内に10軒の店があったようで、ここまで宿場の名産とまでなったのは、亀屋左京七代目の松浦七兵衛の才能によるところが大きい。七兵衛は行商で江戸へ下り、江戸の市中でもぐさを売りさばいては吉原で遊興を重ね、吉原の遊女に「江州柏原伊吹山のふもと亀屋左京のきりもぐさ」と歌わせて名を広めた。また、伊吹もぐさという浄瑠璃を新作して大坂や京都で興業させるなど、奇抜な宣伝によってもぐさを名産にさせた。 また、亀屋左京の繁盛には、「福助さん」の影響もあったようだ。福助さんといえば、裃を着て笑いながら頭を下げている人形を、日本人ならどこかで一度は見たことがあろう。福助さんのモデルは全国にあるが、柏原の亀屋左京で番頭を務めていたという説がある。 福助人形のモデルは亀山左京の番頭だとする文書が亀屋左京に伝わっており、亀屋左京には巨大な福助人形が置かれており、それは歌川広重の絵にも描かれている。 この福助さん、亀屋左京の忠実な番頭だったようで、店の家訓をよく守る正直者で、いつも裃を着け、扇子を手放さず、道行く旅人に手招きしてもぐさをすすめ、商売が...
Read more柏原宿を学ぶ! 2025年5月上旬に行きました。 1年前に柏原宿を訪れたのですが、朝早くの訪問でこちらを見学できず、今回訪問しました。 かつての豪邸を一部を展示スペースと喫茶店に改装し、2階や庭は当時の状態で見学できます。 建物に関する説明板には ———————————————————- 「建物のいわれ」(旧松浦久一郎邸) 柏原宿は、中山道の宿場町として栄え、東国と畿内の接点という交通の要衝にあり、東西文化がふれあい独自の文化を育んできました。この建物の旧所有者松浦家は肥前の国から当地に移り住み、もぐさ屋を営んだと伝えられています。この建物は大正六年染料関係 の商いで財をなした、松浦久一郎氏の父・良平氏が、栂と木曽檜をふんだんに使い住居として建てたものです。近隣の清滝地区には佐々木京極家の庇護を受けた大工集団があり、この建物も清滝の大工棟梁が建てたものです。 当時豪壮な建物が点在した柏原にあっても、ひときわ目を見張る書院造りの建物でありま した。 平成十年四月 米原市 ———————————————————- とあり 有料施設ではありますが、柏原宿を深く知ることができるので見学されることをおすすめします。 また喫茶コーナー(店名は「喫茶 ...
Read more町内で行ったやいと祭りの写真コンテストの審査をここでやってきました。歴史の匂いと空間にタイムスリップしたかのようでした。
1917年に建てられたこの家は今も立派に使われていて、人の一生なんてカゲロウのようなものと思われているかもしれません。
使った建築建材等、今の値段にしたらどれだけのものか分かりませんね‼️ 見た目には古い建物なのですが、使われている建材例えば板の長い廊下ひとつ見ても、どこも継ぎ足しは見えません! 1本の長い木から切り出したもので板を作ったのでしょう!とにかく金額を考えない贅沢な家だと見たら分かります‼️
昔の家ですからエアコン等はありませんが、長い廊下にガラス窓を開けすだれが日除けとなって、涼しい風が入っていました。 柏原に来られた折には、是非見て下さい。
また来られた時は入口の横に、やいと祭り写真コンテストの出品作品を掲示してますので、祭りの様子も見て下さい。
最後に、Google...
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