水屋神社
駐車場🅿は神社対面の赤い桶のところに停めたら良いですよと地元の方に言われて停めさせていただきました。 トイレ🚻有り 車椅子♿少し段差ありますが○
御祭神 櫛稲田姫命 (幼名瀬織津姫、スサノオのお妃) 天児屋根命 (海幸彦、春日大神、後の鹿島大明神) 建速須佐之男(スサノオ) 龍神姫命 (閼伽桶の井の主祭神、スサノオのお妃 ミズハノメノカミ) 蘇民将来 (スサノオに一宿一飯をした人、伊勢の守り神) これが主祭神五柱 続いて 天照大御神 (卑弥呼) 品陀和気命 (贈る応神天皇) 大山津見命 (ツクヨミ) 宇迦之御霊神 (伊勢の外宮様、この呼び方は藤原氏が付けた呼び名) 迦具土神 (天照大御神よりも古い神で製鉄王金山彦) 菅原大明神(道真公)
社伝より 奈良春日大社の安住所として天児屋根命が奉祭され。第11代垂仁天皇の御代、天照大神が当地に巡行した際に天児屋根命と神社裏の川中の巨石(礫石)をもって大和国と伊勢国との境にしたと言われています。 また飛鳥時代の648年には「三蓋山(若草山)」から素盞嗚尊、龍神姫命、櫛稲田姫命を勧請したとされています。
ここからは僕のメモです 秘密をバラします 神社庁の右ならえ社伝ですね☺ 春日大社の創建は奈良時代前後になってからのことで、この春日大社というのは歴史的に新しいです。 社伝とは矛盾しますね。 大和興福寺と伊勢神宮とで領地争いが奈良時代にあったのではないかとも言われています。 奈良に都が造られた710年に、「閼伽桶の井」は興福寺の領地となっていることから648年とされる三柱の勧請も、もっと後の時代だと思われます。
ようは天児屋根命を祭祀する末裔達が先祖を担ぎ系図を弄り記紀を創作し 神を隠す。 天皇家が切り替わったことを意味します。 ここの神水を奈良の春日大社へ奉納しているということですが、 元はこの水屋神社が春日大社の本来のお姿であり、御祭神諸共 天児屋根命(藤原氏の祖先)の子孫から追い出されこの地へやってきました
天児屋根命は高木大神系統でルーツは高句麗ですね スサノオは新羅ですね この2つは朝鮮半島でバチバチにやり合って高句麗が勝ちます。 新羅、百済、伽耶、高句麗の人々が日本にごっそり入ってきてますが この事は言ったらダメになっています この人々はどこに配分されたかもご説明できますが長くなるのでここまで。
主祭神の罔象女神ミズハノメノカミを龍神姫命とお名前を変え必死に地元の氏子さんが守っています。お名前を変えないと神社庁が圧力かけて潰しにきます何故このような事が分かるかと申しますと 日本各地で罔象女神 ミズハノメを潰され 潰され損なったのが九州で残っています。 罔象女神は日本一龍神姫です スサノオと罔象女神の間に産まれたのが伊勢の外宮様、お名前は
辛国息長大姫大目姫命 からくにしなおおひめおおめひめのみこと 後に天児屋根命と結婚します。 その時の名前が息長大姫 子どもはタケミナカタ
後に猿田彦と結婚します その時の名前が大目姫 子どもは卑弥呼宗女イヨ
スサノオと櫛稲田姫との間の子どもは 長髄彦です。神武天皇と喧嘩して勝った人ですね。
知らんけど(笑)
ここは龍神が居られます 罔象女神さまです 龍神姫様とは仲がいいので出て来てくれます。 何故、天児屋根命の末裔達が威張れるのかも分かりますよね☺威張っていいのですが嘘書いてまで誤魔化すのは良くありません。
春日大社の本当の神社が水屋神社です 奈良春日大社の上にも当て字が違う水谷神社があります。
ぜひ本物の御祭神にお会いに来てください☺...
Read moreR166沿いに有る小さな神社⛩️さんですが、
千余年前、大和の春日大社の安在所として天児屋根命を奉斎す。その後、大化4年(648)奈良の三笠山から素盞鳴命、龍神姫命を勧請す。和銅3年(710)興福寺東門院領「閼伽桶の庄」となり、慶長5年(1600)関ヶ原合戦以降伊勢領となる。 当社にのこる南北朝時代文中2年(1373)の棟札にも大和州閼伽桶庄宮と記されており、三殿並立朱塗りの春日造も、明治25年、現在の神明造に改められた。
垂仁天皇25年(紀元前51年)天照大神が当地に巡幸された際、この地に鎮座しておられた春日の神と議って川中の巨石を以って伊勢・大和両国の境とした。この話は、隣接する滝の郷が神宮内宮の御厨であるという「神鳳抄」の記事を考えあわせると、当社が興福寺領の西端を、滝野郷が内宮領の東端を示すものとして注目される。 里人は今もこの巨石を「礫石(つぶていし)」、また、その付近を「堺が瀬」と呼んで慕っている。柳田国男はその著書「日本の伝説」のなかでこの話を取り上げている。 神社名(水屋神社)・所在地(赤桶)・特殊神事・(水取り)祭神(龍神姫)などすべてにわたって水との関わりがあり、当社の西方約700メートルのところには「閼伽桶(あかおけ)の井」がある。 旧記・古文書の類にはこの「閼伽桶の井」の神水を二振りの桶に汲み、貞観元年(859)11月9日より春日大社への奉納を始め、天正5年(1577)の兵乱で中絶したとある。しかし、細々ながら神水はその後も当社へ奉納されてきた。 宮家のご信仰として、一品京極宮家仁親王の胡佐の宮誕生報恩の令旨が奉納されている。 今日のように賑々しく祭事が取り行なわれるようになったのは皇紀2600年(昭和15年)の奉祝を契機としている。
拝殿裏の1000年大...
Read more遠い遠い神代の頃、天照大御神が白馬に乗ってこの地に巡幸した時、この地に鎮座しておられた春日の神、天児屋根命(あめのこやねのみこと)と出会い、巨石を投げて、その波の留まるところを大和と伊勢の国境と決めました。
大石を櫛田川に投げ込むと、川の水が巨大な水柱となり、その水が落下するときに滝のようになったことから、そのあたりを「滝野の里」と呼ぶようになり、大波が高見山にまで達したことで、高見山を大和と伊勢の国境としました。
天児屋根命と出会った際に天照大御神が「珍しや」と言ったことから峠の名は「珍布峠(めずらしとうげ)」と名付けられました。
珍布峠と巨石の礫岩(つぶていし)は神社の川向こうにあります。
のちに大和の春日大社の行在所、つまり仮宮として天児屋根命を奉斎したといわれます。
清和天皇貞観元年(859)11月9日、神社西方の「閼伽桶(あかおけ)の井」から春日大社への奉納を始め、正月暦を創りました。これは「水屋神社のお水祭り」の由来となりました。
天正5年(1577)の兵乱で途絶しましたが、平成14年(2002)4月、閼伽桶の井の神水の春日大社へのお水送りが、425年ぶりに復活しました。
毎年7月31日に神水を入れた二振りの赤桶を乗せた水御輿が閼伽桶の井より本社へ渡御されています。
祭神の天児屋根命は岩戸隠れの際、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大御神が岩戸を少し開いたときに布刀玉命とともに鏡を差し出した神様です。天孫降臨の際邇邇芸命に随伴し、中臣連の祖、つまり藤原家の祖となった神様です。
神社裏手に聳える神木の大楠は推定樹齢1000年以上、樹高35m、根回り29m、樹...
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