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Harajō Castle Ruins — Attraction in Minami-Shimabara

Name
Harajō Castle Ruins
Description
Nearby attractions
Hara Castle Main Turret Ruins
Minamiarimacho, Minamishimabara, Nagasaki 859-2412, Japan
Nearby restaurants
Haruno
Japan, 〒859-2414 Nagasaki, Minamishimabara, Minamiarimacho, 133 内 原城温泉 真砂 施設
Nearby hotels
Harajo Onsen Masago
133 Minamiarimacho, Minamishimabara, Nagasaki 859-2414, Japan
Harajo no Yado Shiro
Tei-170 Minamiarimacho, Minamishimabara, Nagasaki 859-2414, Japan
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Keywords
Harajō Castle Ruins tourism.Harajō Castle Ruins hotels.Harajō Castle Ruins bed and breakfast. flights to Harajō Castle Ruins.Harajō Castle Ruins attractions.Harajō Castle Ruins restaurants.Harajō Castle Ruins travel.Harajō Castle Ruins travel guide.Harajō Castle Ruins travel blog.Harajō Castle Ruins pictures.Harajō Castle Ruins photos.Harajō Castle Ruins travel tips.Harajō Castle Ruins maps.Harajō Castle Ruins things to do.
Harajō Castle Ruins things to do, attractions, restaurants, events info and trip planning
Harajō Castle Ruins
JapanNagasaki PrefectureMinami-ShimabaraHarajō Castle Ruins

Basic Info

Harajō Castle Ruins

Minamiarimacho, Minamishimabara, Nagasaki 859-2412, Japan
4.1(729)
Open until 12:00 AM
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spot

Ratings & Description

Info

Cultural
Outdoor
Scenic
Off the beaten path
attractions: Hara Castle Main Turret Ruins, restaurants: Haruno
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+81 957-73-6706
Website
kirishitan.jp
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Reviews

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Hara Castle Main Turret Ruins

Hara Castle Main Turret Ruins

Hara Castle Main Turret Ruins

4.1

(28)

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Nearby restaurants of Harajō Castle Ruins

Haruno

Haruno

Haruno

3.8

(24)

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Reviews of Harajō Castle Ruins

4.1
(729)
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4.0
2y

普通の観光地にあるはずのものが何もありません。 辺鄙な立地ではあっても国指定史跡にして世界文化遺産の構成要素です。ちょっとした展示館に売店、普通のトイレぐらいはあるだろうと思っていましたが、二〇二三年七月に訪れたところ、展示館はなし、売店もなし、総合案内所とやらはプレハブで、その横に並ぶ仮設トイレの中はうだるような暑さです。最寄のバス停から本丸の間には飲料の自動販売機すらありません。バス停の周辺にもありません。住宅街にある「島原・天草一揆供養碑」への道中にもありません。本丸内にももちろんなく、一縷の望みを託して足をのばした駐車場にもなく、そろそろ熱中症がヤバい、これはもう駄目かもわからんねと思った矢先、駐車場近くのホテルの前に自動販売機を見つけたときは、干天の慈雨のように感じられました。 これでどうということもない見ごたえであれば「ヽ(`Д´)ノ モウコネエヨ!!」で済むのですが、歴史好き、城好き、廃墟好きにはたまらない史跡です。 原城は島原の乱の折に天草四郎率いる一揆勢が籠城のうえ殲滅された場所として知られていますが、もともとは有馬晴信が日野江城の支城として築き、後に居城とすべく拡張したものでした。有馬氏の転封後に領主となった松倉重政は、日野江と原の二城を廃し、島原に新たな城を築きました。重政は領民に重税を課し、払えない者は厳罰に処し、殊更に残酷な方法をもってキリシタンを弾圧しました。重政の子の勝家の代になって苛政は猖獗を極め、遂に島原の乱が勃発します。 勝家が「キリシタンが悪い(だからオレは悪くない)」と言い立てて、幕府が「うん、キリシタンが悪い(…ということにして徹底的に弾圧したろ)」と応じた結果、原城は凄惨きわまりない虐殺の舞台となります。いまもって「キリシタンの蜂起」と捉えられがちな島原の乱ですが、一番の原因は間違いなく重政と勝家、二代に渡っての失政です。幕府もそこはわかっていたので、乱の鎮圧後に勝家を斬首に処しています。名誉の切腹でなく罪人として首を落とされた大名は、江戸時代を通じて勝家ただ一人です。そして島原の乱の嚆矢となったのは、過酷な税の徴収に堪えかねての暴動でした。キリスト教とは関係ナッシングです。暴動を組織化したのは土着化した有馬氏、小西氏の旧臣であり、その多くがキリシタンであったのは確かなものの、彼らの死をヴァチカンは殉教とは認めていません。指導者の天草四郎をふくめ聖者、福者に列せられた者は一人としておらず、信仰のための戦いだったとは今もって認められていないのです。重政の弾圧により雲仙地獄で殉教した三三名が福者とされているのとは対照的です。 原城は重政により棄却されたものの、多くの遺構は存置されていたとするのが通説となっています。堅塞固塁に拠って幕府の討伐軍に多大な出血を強いた一揆勢ですが、「知恵伊豆」こと松平伊豆上信綱が参陣してからは劣勢に追い込まれ、徹底した兵糧攻め後、老いも若きも男も女もことごとく殺されました。文字通りの意味での皆殺しです。原城は二度と反乱の拠点とならぬよう徹底的に破壊されたものの、いまなお金城鉄壁の名残をとどめています。明治の廃城令を経て近代化の波に飲み込まれてしまった名ばかりの城址よりよほど風情があります。浪漫も感じられます。近世最後の攻城戦の舞台であり、敗れたとは言えども貫禄があります。 わかりやすいガイダンス施設がないので予習は必須です。夏場であれば熱中症対策も必須です。観光地としてはダメダメだらけであっても、遠路はるばる足を運...

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5.0
9w

A bit of a ways out (at least an hour by bus regardless of where you're coming from) but well worth it if in the area, especially if you've already been to Shimabara castle proper. Very friendly staff and a glimpse as rural Japanese life around it. But be warned that it's also a very overgrown ruin. Large enough and out of the way enough that "busy" is only a few cars, but with free admission and good means of portraying the importance, it's...

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5.0
2y

原城の天草丸など、南端部分を車で巡ってきて、これからは徒歩で原城の主要部分を巡ることになる。予定時間は120分である。駐車場は迷った挙句、大手口の観光用駐車場を選んだ。 ここからの私の大まかな巡見ルートは、大手口跡、三の丸跡、板倉重昌の碑、仕寄場、少し戻って二の丸跡、空堀跡、本丸虎口跡、本丸内史跡、池尻口門跡、本丸石垣及び破壊石垣、二の丸方向へ少し戻って、蓮池跡へ降り、海沿いに本丸の崖下まで行って、Uターンしてアコウ街道を通り駐車場へ戻るコースである。お奨めである。 城全体の印象としては自然で古城としての趣がある。総石垣造りの本丸跡は見応えがあり、それ以外の郭は土造りで古城の雰囲気を充分感じられる。この雄大な郭群の基本的な縄張りは、本丸、二の丸、三の丸と連なる連郭式と言える。

さて、原城は肥前有馬氏の本城であった日野江城の支城として、慶長四(1599)年から慶長九(1604)年にかけて有馬晴信が築いた城である。しかし、晴信は慶長十七(1612)年岡本大八事件に連座し甲斐に流罪となり、キリシタンなので自刃は好まず斬首されたと云う。その後、晴信の子直純[なおずみ]が家康の側近ということもあり所領4万石を継承したが、慶長十九(1614)年日向国延岡藩に5万3千石の加増転封となった。その後2年間天領となるが、元和二(1616)年大和五条から松倉重政が大坂の陣における功により、島原藩4万3千石で入封した。重政はいったん日野江城に入ったが、直ぐに浜の城(島原市新町の中央公園に碑がある)に移った。そして、重政は元和四(1618)年の一国一城令に従い、日野江城と原城を廃し、島原の元森岳城の地に分不相応な巨大な島原城の築城を開始した。

新領主となった松倉重政・勝家父子は、新城築城以外にも新税を設けるなど領民へ圧政を続け、年貢を払えない者には拷問を行った。その結果、領民たちの不満が爆発し、寛永十四(1637)年から翌年にかけて島原・天草一揆が勃発したのである。この時廃城となっていた原城に、天草四郎(本名:益田時貞)を総大将とした約2万数千人の一揆軍が籠城し、この原城跡が戦乱の主戦場となったのである。

因みに、天草四郎は島原の人ではなく天草の大矢野島の出であり、その出自については色々なロマンがある。豊臣秀頼の落胤説や、秀頼と千姫の子の千代姫と真田信繫(幸村)の子大助との子などである。前者は、新潮文庫の「秘録 島原の乱」(加藤廣著)にあり、後者は、角川の時代小説文庫「戦国、夢のかなた」(岡本さとる著)にある。 いずれもこの乱(一揆)を単なる圧政に苦しむ領民(弾圧に苦しむキリスト教徒)の乱(一揆)としてではなく、徳川vs.豊臣の最後の戦いと捉え、明石掃部や福島正則まで登場させている。信じ難いが誠にロマンがあって面白い。しかし、残念ながらそんな痕跡に遭遇することは全くなかった。《...

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七面鳥放浪記七面鳥放浪記
普通の観光地にあるはずのものが何もありません。 辺鄙な立地ではあっても国指定史跡にして世界文化遺産の構成要素です。ちょっとした展示館に売店、普通のトイレぐらいはあるだろうと思っていましたが、二〇二三年七月に訪れたところ、展示館はなし、売店もなし、総合案内所とやらはプレハブで、その横に並ぶ仮設トイレの中はうだるような暑さです。最寄のバス停から本丸の間には飲料の自動販売機すらありません。バス停の周辺にもありません。住宅街にある「島原・天草一揆供養碑」への道中にもありません。本丸内にももちろんなく、一縷の望みを託して足をのばした駐車場にもなく、そろそろ熱中症がヤバい、これはもう駄目かもわからんねと思った矢先、駐車場近くのホテルの前に自動販売機を見つけたときは、干天の慈雨のように感じられました。 これでどうということもない見ごたえであれば「ヽ(`Д´)ノ モウコネエヨ!!」で済むのですが、歴史好き、城好き、廃墟好きにはたまらない史跡です。 原城は島原の乱の折に天草四郎率いる一揆勢が籠城のうえ殲滅された場所として知られていますが、もともとは有馬晴信が日野江城の支城として築き、後に居城とすべく拡張したものでした。有馬氏の転封後に領主となった松倉重政は、日野江と原の二城を廃し、島原に新たな城を築きました。重政は領民に重税を課し、払えない者は厳罰に処し、殊更に残酷な方法をもってキリシタンを弾圧しました。重政の子の勝家の代になって苛政は猖獗を極め、遂に島原の乱が勃発します。 勝家が「キリシタンが悪い(だからオレは悪くない)」と言い立てて、幕府が「うん、キリシタンが悪い(…ということにして徹底的に弾圧したろ)」と応じた結果、原城は凄惨きわまりない虐殺の舞台となります。いまもって「キリシタンの蜂起」と捉えられがちな島原の乱ですが、一番の原因は間違いなく重政と勝家、二代に渡っての失政です。幕府もそこはわかっていたので、乱の鎮圧後に勝家を斬首に処しています。名誉の切腹でなく罪人として首を落とされた大名は、江戸時代を通じて勝家ただ一人です。そして島原の乱の嚆矢となったのは、過酷な税の徴収に堪えかねての暴動でした。キリスト教とは関係ナッシングです。暴動を組織化したのは土着化した有馬氏、小西氏の旧臣であり、その多くがキリシタンであったのは確かなものの、彼らの死をヴァチカンは殉教とは認めていません。指導者の天草四郎をふくめ聖者、福者に列せられた者は一人としておらず、信仰のための戦いだったとは今もって認められていないのです。重政の弾圧により雲仙地獄で殉教した三三名が福者とされているのとは対照的です。 原城は重政により棄却されたものの、多くの遺構は存置されていたとするのが通説となっています。堅塞固塁に拠って幕府の討伐軍に多大な出血を強いた一揆勢ですが、「知恵伊豆」こと松平伊豆上信綱が参陣してからは劣勢に追い込まれ、徹底した兵糧攻め後、老いも若きも男も女もことごとく殺されました。文字通りの意味での皆殺しです。原城は二度と反乱の拠点とならぬよう徹底的に破壊されたものの、いまなお金城鉄壁の名残をとどめています。明治の廃城令を経て近代化の波に飲み込まれてしまった名ばかりの城址よりよほど風情があります。浪漫も感じられます。近世最後の攻城戦の舞台であり、敗れたとは言えども貫禄があります。 わかりやすいガイダンス施設がないので予習は必須です。夏場であれば熱中症対策も必須です。観光地としてはダメダメだらけであっても、遠路はるばる足を運ぶに足る魅力があります。
Vincent TorrijosVincent Torrijos
A bit of a ways out (at least an hour by bus regardless of where you're coming from) but well worth it if in the area, especially if you've already been to Shimabara castle proper. Very friendly staff and a glimpse as rural Japanese life around it. But be warned that it's also a very overgrown ruin. Large enough and out of the way enough that "busy" is only a few cars, but with free admission and good means of portraying the importance, it's hard to pass up.
chu “お城とお酒と一人旅”chu “お城とお酒と一人旅”
原城の天草丸など、南端部分を車で巡ってきて、これからは徒歩で原城の主要部分を巡ることになる。予定時間は120分である。駐車場は迷った挙句、大手口の観光用駐車場を選んだ。 ここからの私の大まかな巡見ルートは、大手口跡、三の丸跡、板倉重昌の碑、仕寄場、少し戻って二の丸跡、空堀跡、本丸虎口跡、本丸内史跡、池尻口門跡、本丸石垣及び破壊石垣、二の丸方向へ少し戻って、蓮池跡へ降り、海沿いに本丸の崖下まで行って、Uターンしてアコウ街道を通り駐車場へ戻るコースである。お奨めである。 城全体の印象としては自然で古城としての趣がある。総石垣造りの本丸跡は見応えがあり、それ以外の郭は土造りで古城の雰囲気を充分感じられる。この雄大な郭群の基本的な縄張りは、本丸、二の丸、三の丸と連なる連郭式と言える。 さて、原城は肥前有馬氏の本城であった日野江城の支城として、慶長四(1599)年から慶長九(1604)年にかけて有馬晴信が築いた城である。しかし、晴信は慶長十七(1612)年岡本大八事件に連座し甲斐に流罪となり、キリシタンなので自刃は好まず斬首されたと云う。その後、晴信の子直純[なおずみ]が家康の側近ということもあり所領4万石を継承したが、慶長十九(1614)年日向国延岡藩に5万3千石の加増転封となった。その後2年間天領となるが、元和二(1616)年大和五条から松倉重政が大坂の陣における功により、島原藩4万3千石で入封した。重政はいったん日野江城に入ったが、直ぐに浜の城(島原市新町の中央公園に碑がある)に移った。そして、重政は元和四(1618)年の一国一城令に従い、日野江城と原城を廃し、島原の元森岳城の地に分不相応な巨大な島原城の築城を開始した。 新領主となった松倉重政・勝家父子は、新城築城以外にも新税を設けるなど領民へ圧政を続け、年貢を払えない者には拷問を行った。その結果、領民たちの不満が爆発し、寛永十四(1637)年から翌年にかけて島原・天草一揆が勃発したのである。この時廃城となっていた原城に、天草四郎(本名:益田時貞)を総大将とした約2万数千人の一揆軍が籠城し、この原城跡が戦乱の主戦場となったのである。 因みに、天草四郎は島原の人ではなく天草の大矢野島の出であり、その出自については色々なロマンがある。豊臣秀頼の落胤説や、秀頼と千姫の子の千代姫と真田信繫(幸村)の子大助との子などである。前者は、新潮文庫の「秘録 島原の乱」(加藤廣著)にあり、後者は、角川の時代小説文庫「戦国、夢のかなた」(岡本さとる著)にある。 いずれもこの乱(一揆)を単なる圧政に苦しむ領民(弾圧に苦しむキリスト教徒)の乱(一揆)としてではなく、徳川vs.豊臣の最後の戦いと捉え、明石掃部や福島正則まで登場させている。信じ難いが誠にロマンがあって面白い。しかし、残念ながらそんな痕跡に遭遇することは全くなかった。《2023.7.21訪問》
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普通の観光地にあるはずのものが何もありません。 辺鄙な立地ではあっても国指定史跡にして世界文化遺産の構成要素です。ちょっとした展示館に売店、普通のトイレぐらいはあるだろうと思っていましたが、二〇二三年七月に訪れたところ、展示館はなし、売店もなし、総合案内所とやらはプレハブで、その横に並ぶ仮設トイレの中はうだるような暑さです。最寄のバス停から本丸の間には飲料の自動販売機すらありません。バス停の周辺にもありません。住宅街にある「島原・天草一揆供養碑」への道中にもありません。本丸内にももちろんなく、一縷の望みを託して足をのばした駐車場にもなく、そろそろ熱中症がヤバい、これはもう駄目かもわからんねと思った矢先、駐車場近くのホテルの前に自動販売機を見つけたときは、干天の慈雨のように感じられました。 これでどうということもない見ごたえであれば「ヽ(`Д´)ノ モウコネエヨ!!」で済むのですが、歴史好き、城好き、廃墟好きにはたまらない史跡です。 原城は島原の乱の折に天草四郎率いる一揆勢が籠城のうえ殲滅された場所として知られていますが、もともとは有馬晴信が日野江城の支城として築き、後に居城とすべく拡張したものでした。有馬氏の転封後に領主となった松倉重政は、日野江と原の二城を廃し、島原に新たな城を築きました。重政は領民に重税を課し、払えない者は厳罰に処し、殊更に残酷な方法をもってキリシタンを弾圧しました。重政の子の勝家の代になって苛政は猖獗を極め、遂に島原の乱が勃発します。 勝家が「キリシタンが悪い(だからオレは悪くない)」と言い立てて、幕府が「うん、キリシタンが悪い(…ということにして徹底的に弾圧したろ)」と応じた結果、原城は凄惨きわまりない虐殺の舞台となります。いまもって「キリシタンの蜂起」と捉えられがちな島原の乱ですが、一番の原因は間違いなく重政と勝家、二代に渡っての失政です。幕府もそこはわかっていたので、乱の鎮圧後に勝家を斬首に処しています。名誉の切腹でなく罪人として首を落とされた大名は、江戸時代を通じて勝家ただ一人です。そして島原の乱の嚆矢となったのは、過酷な税の徴収に堪えかねての暴動でした。キリスト教とは関係ナッシングです。暴動を組織化したのは土着化した有馬氏、小西氏の旧臣であり、その多くがキリシタンであったのは確かなものの、彼らの死をヴァチカンは殉教とは認めていません。指導者の天草四郎をふくめ聖者、福者に列せられた者は一人としておらず、信仰のための戦いだったとは今もって認められていないのです。重政の弾圧により雲仙地獄で殉教した三三名が福者とされているのとは対照的です。 原城は重政により棄却されたものの、多くの遺構は存置されていたとするのが通説となっています。堅塞固塁に拠って幕府の討伐軍に多大な出血を強いた一揆勢ですが、「知恵伊豆」こと松平伊豆上信綱が参陣してからは劣勢に追い込まれ、徹底した兵糧攻め後、老いも若きも男も女もことごとく殺されました。文字通りの意味での皆殺しです。原城は二度と反乱の拠点とならぬよう徹底的に破壊されたものの、いまなお金城鉄壁の名残をとどめています。明治の廃城令を経て近代化の波に飲み込まれてしまった名ばかりの城址よりよほど風情があります。浪漫も感じられます。近世最後の攻城戦の舞台であり、敗れたとは言えども貫禄があります。 わかりやすいガイダンス施設がないので予習は必須です。夏場であれば熱中症対策も必須です。観光地としてはダメダメだらけであっても、遠路はるばる足を運ぶに足る魅力があります。
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原城の天草丸など、南端部分を車で巡ってきて、これからは徒歩で原城の主要部分を巡ることになる。予定時間は120分である。駐車場は迷った挙句、大手口の観光用駐車場を選んだ。 ここからの私の大まかな巡見ルートは、大手口跡、三の丸跡、板倉重昌の碑、仕寄場、少し戻って二の丸跡、空堀跡、本丸虎口跡、本丸内史跡、池尻口門跡、本丸石垣及び破壊石垣、二の丸方向へ少し戻って、蓮池跡へ降り、海沿いに本丸の崖下まで行って、Uターンしてアコウ街道を通り駐車場へ戻るコースである。お奨めである。 城全体の印象としては自然で古城としての趣がある。総石垣造りの本丸跡は見応えがあり、それ以外の郭は土造りで古城の雰囲気を充分感じられる。この雄大な郭群の基本的な縄張りは、本丸、二の丸、三の丸と連なる連郭式と言える。 さて、原城は肥前有馬氏の本城であった日野江城の支城として、慶長四(1599)年から慶長九(1604)年にかけて有馬晴信が築いた城である。しかし、晴信は慶長十七(1612)年岡本大八事件に連座し甲斐に流罪となり、キリシタンなので自刃は好まず斬首されたと云う。その後、晴信の子直純[なおずみ]が家康の側近ということもあり所領4万石を継承したが、慶長十九(1614)年日向国延岡藩に5万3千石の加増転封となった。その後2年間天領となるが、元和二(1616)年大和五条から松倉重政が大坂の陣における功により、島原藩4万3千石で入封した。重政はいったん日野江城に入ったが、直ぐに浜の城(島原市新町の中央公園に碑がある)に移った。そして、重政は元和四(1618)年の一国一城令に従い、日野江城と原城を廃し、島原の元森岳城の地に分不相応な巨大な島原城の築城を開始した。 新領主となった松倉重政・勝家父子は、新城築城以外にも新税を設けるなど領民へ圧政を続け、年貢を払えない者には拷問を行った。その結果、領民たちの不満が爆発し、寛永十四(1637)年から翌年にかけて島原・天草一揆が勃発したのである。この時廃城となっていた原城に、天草四郎(本名:益田時貞)を総大将とした約2万数千人の一揆軍が籠城し、この原城跡が戦乱の主戦場となったのである。 因みに、天草四郎は島原の人ではなく天草の大矢野島の出であり、その出自については色々なロマンがある。豊臣秀頼の落胤説や、秀頼と千姫の子の千代姫と真田信繫(幸村)の子大助との子などである。前者は、新潮文庫の「秘録 島原の乱」(加藤廣著)にあり、後者は、角川の時代小説文庫「戦国、夢のかなた」(岡本さとる著)にある。 いずれもこの乱(一揆)を単なる圧政に苦しむ領民(弾圧に苦しむキリスト教徒)の乱(一揆)としてではなく、徳川vs.豊臣の最後の戦いと捉え、明石掃部や福島正則まで登場させている。信じ難いが誠にロマンがあって面白い。しかし、残念ながらそんな痕跡に遭遇することは全くなかった。《2023.7.21訪問》
chu “お城とお酒と一人旅”

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