青蓮寺山城👈城だった頃の名前🏯
(南北朝時代に)南朝と北朝が衝突した
足利将軍家の分家の細川家が築城したが南北朝時代
激戦区だった(城跡だけあり眺めが最高)
青蓮寺の僧兵達は、密蔵寺を建ててそこに避難した
🌠武士の大平家や横山家の警護がついていた
北朝側の細川家重臣の大平家(讃岐近藤家分家)讃岐の地侍達から信頼を受けた
と
南朝側の細川家重臣の近藤家(讃岐近藤家宗家)京都の公家寄りの立場
が身内同士血で血を洗う合戦を行い
分家の大平家が勝利して近藤家を従属させた
元々は、同じ源頼朝の重臣の近藤家の一族だけど
考え方は、正反対だった
北朝の後小松天皇(一休さんの父親)が南朝を従属させて(平和的に南朝が譲るように奔走した)
南北朝は、元の朝廷へ統一して南北朝時代が終わった
後小松天皇の父親の後円融天皇(一休さんの祖父)気性が荒く貴族も武家も彼を恐れた
後小松天皇の母親の藤原厳子(一休さんの祖母)大人しい女性
称光天皇(長男👈一休さんの兄)気性が荒かった
小川宮(長女👈一休さんの姉)気性が荒かった
理永女王(次女一休さんの姉)大人しい女性
一休宗純(次男👈とんちで有名な一休さん本人)青年期は、気性が荒かった
⚠️仏教の菩薩戒で禁じられていた飲酒・肉食や女犯を行い、
盲目の女性である森侍者(森女)や岐翁紹禎という実子の弟子がいた。
🌠🌠🌠森女は、源氏の森一族の女だが合戦で森家の守っていた館が陥落、それが原因で目を悪くした
木製の刀身の朱鞘の大太刀を差すなど、
風変わりな格好をして街を歩きまわった。
これは「鞘に納めていれば豪壮に見えるが、抜いてみれば木刀でしかない」ということで、
外面を飾ることにしか興味のない当時の世相を風刺したものであったとされる。
親交のあった本願寺門主蓮如の留守中に居室に上がり込み、
蓮如の持念仏の阿弥陀如来像を枕に昼寝をした。
その時に帰宅した蓮如は「俺の商売道具に何をする」と言って、二人で大笑いしたという。
正月に杖の頭にドクロをしつらえ、
「ご用心、ご用心」と叫びながら練り歩いた。
こうした一見奇抜な言動は、中国臨済宗の僧・普化など唐代の禅者に通じ、
禅宗の教義における風狂の精神の表れとされる。
同時に、こうした行動を通して、
当時の仏教の権威や形骸化を批判・風刺し、
仏教の伝統化や風化に警鐘を鳴らしていたと解釈されている。
彼の禅風は、直筆の法語『七仏通誡偈』が残されていることからも伺える。
このような戒律や形式に囚われない人間臭い生き方は、民衆の共感を呼んだ。
江戸時代には、
彼をモデルとした『一休咄』に代表される頓知咄(とんちばなし)を生み出す元となった。
一休は能筆で知られる。
また、一休が村田珠光の師であるという伝承もあり、
茶人の間で墨蹟が極めて珍重された
著書(詩集)は、『狂雲集』『続狂雲集』『自戒集』『骸骨』など。
東山文化を代表する人物でもある。
また、足利義政とその妻日野富子の幕政を批判したことも知られる。
ぶっ飛んだ人物で天才でもある
もし一休さんが天皇に成ってたら
ぶっ飛び天皇として現代に伝わってたよね
🌠🌠🌠一休さんの愛人の森女の出自(ルーツ)
ヤンチャな一休を愛した女性(人前でキスしたりした室町時代に)
森家の出自は清和源氏とされている。(平氏や藤原氏が養子として入った名門)
清和源氏の祖は清和天皇で、
文徳天皇の第4皇子にあたり、
当時最大の実力者であった藤原良房の孫にあたる。
この良房の強い意志によって、
生後9ヶ月皇太子となり、
文徳天皇が没すると
わずか9歳にして即位した、
幼い清和天皇を補佐したのは外祖父の良房であり、
彼は人臣として初の摂政となった。
良房没後は良房の養嗣子基経が実権を握り、
これに憤慨した天皇は、
やはり基経の妹である皇后高子
との間にもうけた第一皇子、
貞明親王に譲位した。在位は18年。
そしてこの貞明親王が後の陽成天皇となった。
譲位後は仏門に入って素真と号したが、
元慶4年(880)に粟田山荘円覚寺で31歳で崩御した。
このとき、
遺言によって御陵は作られなかったが、
現在は京都市右京区嵯峨の水尾山陵が清和天皇陵とされている。
別名を水尾天皇といい、
水尾院とも称された。 ■森のという苗字の由来
森という苗字の由来は、
清和天皇から7代目の子孫に当たる、
源義隆が相模国の毛利庄
(現在の神奈川県愛甲郡の辺り)に荘園を得て、
この「毛利」が「森」と変形したものに由来する。
源義隆は「源」を名乗っているため、
これをある日急に「森」と変えたわけではない。
そもそも、「森」の呼称は苗字ではあるが、
この当時の武将や貴族は苗字よりも、
氏「源」を名乗っていた。
そのためこの頃は、
「森義隆」と称することはなく、
「源義隆」と名乗っていた。それが次第に、移行して、
ついには森●●と称するようになったのである。
江戸時代の森家の藩主達が墨蹟を残したり、
燈籠を建てたりする際「源●●」と署名
していることが多い。...
Read more現在は塔重山公園(たからだの里公園)と成り小さな芝生広場と展望台、小さな遊具が2つあるだけの公園です。 ただ展望が素晴らしいのと春の桜は見事です。 他の方の口コミにも書かれてますが駐車場がビックリするほど狭いですので普通車以上は止めない方が無難です。 この場所は財田城から東方の谷を隔てて直線距離で約600m余りの位置にあたり標高268mと眺めは良く最高の立地です。その為、南北朝の頃までは青蓮寺と云う寺院がありましたが、それを山城に改修したそうです。僧侶達は下山させた(現在の密蔵寺)ようです。 寺院の周りに二段の薬研堀(空堀)を造り防御に備えたようです。 残念ながら公園整備で山頂部分は土砂の移動が成されたようで薬研堀(空堀)は跡形は分からなかったです。 財田城攻防に絡む戦が繰り広げられたようで戦火に巻き込まれ建物は完全に焼失したでしょう。 展望台に上り周りを眺めていると古の武将に成っ...
Read more2022.4.6 ...
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