宇佐神宮と同様に呉橋を持ち、宇佐の祖宮とされる中津の薦(こも)神社。内宮とする三角池の薦を枕に作り、御神体として八幡宇佐宮に納めてきた特別な社。 その創立には八幡宇佐宮の放生会、その由来となった隼人の乱および宇佐氏の復活、そして彦山修験および八幡宇佐宮の成立と神仏混淆、さまざまな要因が絡む。 八幡宇佐宮の御託を、正史『続日本紀』に合わせて並べると
養老四年(720)『続日本紀』~二月 壬子、大宰府の奏して言すに「隼人反く。大隅國守の陽侯(やこ)史麻呂を殺せり。」 三月、癸丑朔丙辰、中納言正四位下の大伴宿禰旅人を以て征隼人持節大將軍と為す。刀助從五位下の笠朝臣御室、民部少輔從五位下の巨勢朝臣真人を授け副將軍と為す。~
『八幡宇佐宮御神託集』~神託く。「我行きて降伏すべし」てへり。~
~(大神)諸男常に臨む時、(宇佐)池守申して云く。「化人船に乗り、頭を池の上に浮べ、歌つて云く。「大貞や 三角の池の真薦草 なにを縁に 天胎み生むらん」」… …初秋の天 、初午の日に、雲波池に満ち、 煙波渚に依り、湧き返り湧き返りて、雲中に声有りて宣く 。「我れ昔、此の薦を枕と為し、 百王守護の誓を発しき。 百王守護とは 、凶賊を降伏すべきなり」てへり 。~
大貞に坐す三角池の真薦草で作った枕が、八幡神の御神体となり、日本初の神輿に乗せられたらしい。この故に、宇佐神宮が今に至るも、お神輿の起源を称するとか。 どうやらこれが薦神社の起こりでもあるようだから、その池守が大神諸男にアドバイスしたというのは甚だ怪しい。
『続日本紀』~八月、辛巳朔、右大臣正二位の藤原朝臣不比等、病。 壬辰、敕:「征隼人持節將軍の大伴宿禰旅人、藤原不比等の喪を弔はらむが為、宜しく且く京に入らんか。但し副將軍已下は、隼人未だ平がずば、宜しく留めて己屯すべし。」~
『八幡宇佐宮御神託集』~今二ヶ所の城の凶徒、忽に殺し難き間、託宣したまはく。「須く三年を限つて守つて衆賊を殺さん。神我、此の間を相助けて、荒振る奴等を伐り殺さしめん」てへり。~
養老五年(721) 『続日本紀』~六月 丙子朔戊寅、詔して曰く「沙門法蓮、心は禪枝に住み、行ひは法梁に居ます。尤も醫術に精しく、濟民が苦しび治す。善き哉若人、何ぞ褒賞めざるや。」其の僧三等以上親しく、宇佐君なる姓を賜ふ。 秋七月 壬子、征隼人副將軍の從五位下笠朝臣御室、從五位下巨勢朝臣真人等、還り歸る。斬首、獲虜、合せて千四百餘人。~
養老七年(723)~五月 辛巳、大隅・薩摩二國隼人等六百廿四人、朝貢。 甲申、隼人に饗を賜ふ。おのおの其の風俗歌舞を奏づ。酋師卅四人、敘位賜祿、おのおの差有り。 六月、甲午朔庚子、隼人歸鄉。~
「法蓮」は法相宗の僧にして彦山中興の祖。八幡宇佐宮の神宮寺である弥勒寺の初代別当でもあり、鷹巣観音を開き、宇佐君の姓を得て宇佐池守の祖となった。 どうやら神武天皇を迎えたオリジナルの菟狹氏は、磐井の乱に荷担して没落したらしく。それを法蓮が再興したということか。
『八幡宇佐宮御神託集』~此の事(隼人征伐)の後に、託宣したまふ。「我今坐する小山田社は、其の地狭隘し。我菱形山に移らんと願ひ給ふ」。~
この頃は八幡神が小山田宮に坐し、その名はまだ朝廷に知られていなかったようだ。しかし法蓮が高く評価された以上、その活動が伝わっていた筈。
神亀元年(724) 『八幡宇佐宮御神託集』~託宣したまはく。「吾れ此の隼人等多く殺却する報には 、年別に二度放生会を奉仕せん 」てへり。又云く。「一万度放生の事畢んぬ 。眷属を引率して 、浄刹に送らん」てへり 。~
放生会の始まりである。率先して戦いに赴きながら、殺し過ぎたといって法事を始めるとは、他にも事情はあろう。
天平五年(733) 『八幡宇佐宮御神託集』 神宣く。「我昔この薦を御枕と為して、百王守護の誓願を発して、跡を神道に垂る。此の薦を以て吾が社の験に備へて、尊崇を致さば、神徳を施すべきなり」てへり。 天平宝字七年(763) 『八幡宇佐宮御神託集』託宣したまはく。「押領使宇佐公池守を我が宮司に願ふ」てへり...
Read more別名を「大貞八幡宮」といい、宇佐神宮の元宮とも言われる古いお社です。但し宇佐神宮託宣集に因ると元宮は福岡県の大分八幡宮、また金富神社である可能性も高く断定は出来ません。旧社格は県社。祭神は応神天皇、比咩大神(宗像三女神)、息長帯比売命(神功皇后)です。神紋は一つ巴。宇佐神宮が三つ巴である事から考えると元々は三女神ではなく、一人の女神を祀っていた可能性も考えられます。宗像三女神は日本書紀によると「即ち日神の生まれまする三の女神に以ては、葦原中国の宇佐島に降り居さしむ。今、海の北の道の中に座す」とあり、宗像三女神は最初に宇佐の地に降臨された事を示している、と言います。宇佐神宮の比売大神ですね。比売大神はその後、宗像の地に遷座する訳です。薦神社の神社としての創建は承和年間(834~848年)とされていますが、宇佐神宮の元宮とするなら時代が合いません(宇佐神宮は神亀2年/725年)。前述の宇佐神宮託宣集に因ると養老3年(720年)、大隅、日向の隼人の反乱で、大伴旅人率いる大和朝廷軍と宇佐神宮の辛島波豆米率いる宇佐「神軍」が薦神社の三角池に自生する真薦を刈って作った枕形の御験、薦枕を御神体に、御輿を奉じて日向まで行幸し、乱を鎮めたと言われています。この薦刈神事は現在6年毎に行われる「宇佐神宮行幸会」に繋がると言いますから、神社成立前から三角池は神聖な池として崇められていたのでしょう。薦神社は三角池を内宮、社殿を外宮としていますので、三角池は今も御神体として大切にされています。社殿の初めての造営は前記承和年間に成され、天仁2年(1109年)に神宮寺の七堂伽藍が建立されましたが、源平の騒乱時、元暦元年(1184年)に緒方惟栄により社殿が破壊されたと伝わります。その後長く記録が途絶え、室町時代、豊前国も領した長門の守護、大内氏により応永~永享年間(1418~1438年)及び天文年間(1532~1555年)の二度に渡り社殿が再興されました。その後入部した細川忠興により元和年間(1615~1624年)に本殿、申殿、廻廊、神門等が造営されました。重要文化財の神門は1622年の造営のものです。現在の本殿、廻廊等は江戸時代末期のものであり、幾度かの修復を経て現在に至るとされていますが、現在神門は大規模修復工事中で見学不可になっています。境内は広く唐破風を持つ拝殿、申殿、流造の本殿、それらを取り囲む見事な廻廊のある大変立派な社殿建築群です。宇佐神宮の元宮を名乗るに相応しい社殿です。また境内には宇佐神宮のものと比較すると規模は小さいですが、屋根付きの橋「呉橋」もあります。伊勢社等の摂末社も点在しており見所満載と言った所でしょうか。駐車場は未舗装ですが100台分程度はありそうです。今日は生憎の雨天だった為、隅々迄見て廻れなかったのが残念です。御朱印は¥300-の初穂料で直書きで頂く事が出来ました。また改め...
Read moreBeautiful shrine in a lovely setting. I visited during the annual display of hundreds of chrysanthemums, also the season of the Shichi-Go-San celebration, when families bring their young children to the shrine, usually dressed in colorful...
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