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Site of Karasuyama Castle — Attraction in Nasukarasuyama

Name
Site of Karasuyama Castle
Description
Karasuyama Castle is a Japanese castle located in Nasukarasuyama, northern Tochigi Prefecture, Japan. At the end of the Edo period, Karasuyama Castle was home to a branch of the Ōkubo clan, daimyō of Karasuyama Domain. It was also called the Cactus Castle
Nearby attractions
Nearby restaurants
Shirokiya
3 Chome-10-15 Central, Nasukarasuyama, Tochigi 321-0621, Japan
花工房 cafe アトリエ 野バラ
688-4 Takita, Nasukarasuyama, Tochigi 321-0605, Japan
Nearby local services
Daishinden Observatory
1 Chome-5-32 Central, Nasukarasuyama, Tochigi 321-0621, Japan
Nearby hotels
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Keywords
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Site of Karasuyama Castle
JapanTochigi PrefectureNasukarasuyamaSite of Karasuyama Castle

Basic Info

Site of Karasuyama Castle

Shiroyama, Nasukarasuyama, Tochigi 321-0631, Japan
3.9(48)
Open until 12:00 AM
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spot

Ratings & Description

Info

Karasuyama Castle is a Japanese castle located in Nasukarasuyama, northern Tochigi Prefecture, Japan. At the end of the Edo period, Karasuyama Castle was home to a branch of the Ōkubo clan, daimyō of Karasuyama Domain. It was also called the Cactus Castle

Cultural
Scenic
Outdoor
Family friendly
Off the beaten path
attractions: , restaurants: Shirokiya, 花工房 cafe アトリエ 野バラ, local businesses: Daishinden Observatory
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Candlelight: 時代を超えて愛されるクラシック名曲集
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Sun, Jan 25 • 3:00 PM
栃木県宇都宮市宿郷5-21-15, 321-0945
View details

Nearby restaurants of Site of Karasuyama Castle

Shirokiya

花工房 cafe アトリエ 野バラ

Shirokiya

Shirokiya

4.4

(13)

Open until 12:00 AM
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花工房 cafe アトリエ 野バラ

花工房 cafe アトリエ 野バラ

3.8

(3)

Closed
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Nearby local services of Site of Karasuyama Castle

Daishinden Observatory

Daishinden Observatory

Daishinden Observatory

3.1

(36)

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那須七騎史跡 別名臥牛城。 2022年5月7日来訪。 那須七騎の主家である那須氏の本拠。 那須七騎とは主家の那須氏を中心とした、一族の蘆野氏、伊王野氏、千本氏、福原氏と重臣の大田原氏、大関氏の七家からなる武家連合組織。 那須七騎については、それぞれが小規模な兵力しか持たない存在でしかなく、普通なら外敵の脅威に対抗する為に一族家臣が一致団結しそうなところであるが、全くまとまりがなく互いに佐竹氏や宇都宮氏等の周辺勢力を引き入れて潰しあい続け、戦国大名化に至らないまま戦国末期まで至ってしまったような家である。また、普通ならとっくに弱体化して周辺の大名に滅ぼされたり、属国になっていてもおかしくないのに、岩城氏、結城氏、宇都宮氏、佐竹氏等の相次ぐ外敵の侵攻に対し、なぜか勝利してしまう那須七騎は、同じく小勢力で北条氏、徳川氏等と亘りあった真田氏程メジャーではないが、戦の強さや配下の癖の強さは、真田氏に引けを取らない位、面白い存在である。 主家那須氏についてですが、出自は藤原道長の曾孫資家が下野国那須郡に下向し、資隆の代から那須氏を名乗ったという。源頼朝が伊豆で挙兵した際、資隆の子の内、十男の為隆と十一男の与一のみが源頼朝に従って平氏と戦った。治承、寿永の乱の屋島の戦いで、那須与一が平家が船上に掲げた扇の的を弓で撃ち落とした逸話は有名である。 こうした活躍もあって平家打倒後は、与一は兄らを差し置いて那須氏の当主となったという。また与一は平氏に与し他国に逃亡していた兄達を赦免し、領土を分け与え、それが福原氏、千本氏等、その後の那須七騎の祖となった。 室町時代に入ると、鎌倉公方足利満兼の就任に際し、関東管領上杉朝宗の提案で、宇都宮氏、小田氏、佐竹氏、千葉氏、長沼氏、結城氏と共に、鎌倉公方を支える家として、それぞれの国の守護を出す家柄として定められた関東八屋形として、屋形号を称する事を許される程、那須氏は興隆した。 ところが15世紀前半、第12第当主那須資之と弟資重の間で争うようになり、1416年、上杉禅秀の乱が勃発すると、資之は関東管領上杉禅秀方、資重は鎌倉公方足利持氏方に味方に付いた。持氏の勝利後、資重はその後ろ盾を得て下那須家として存続し、資之の家系の上那須家との分裂が恒常化し、那須氏の勢力は衰退した。なお烏山城は、下那須家を立てた資重が、1418年に築城し、下那須家の居城とした。 1514年、上那須家第15代那須資親の死により生じた上那須家の家督争いに介入した下那須家の那須資房が、子政資を上那須家当主に据え、上那須氏と下那須氏を事実上統一。 しかし、古河公方の内紛である永正の乱の影響を受け、資房隠居後に家督を継いだ政資と、その嫡子高資が、共に周辺勢力を味方につけながら父子で争い、高資が烏山城を奪って家督を強奪した。この後も政資と高資は父子で争いを続けるが、1544年には政資から高資に正式に家督を譲られたようである。 1549年には、古河公方足利晴氏の命で侵攻してきた宇都宮氏と抗争が始まるが、喜連川五月女坂の戦いにおいて、高資は300騎の兵で、宇都宮氏20代当主尚綱が率いる2500騎の軍勢と戦い、宇都宮尚綱を戦死させてこれを破り、その後の宇都宮氏の混乱に乗じて宇都宮氏の治めていた塩谷郡の一部まで領土を拡張した。 父と争い家督を奪い、周辺勢力とも戦いながら、胡散臭い癖のある家臣をまとめ上げ、喜連川五月女坂の戦いにおいて8倍強の兵力を有する宇都宮軍を破り大金星を挙げ、那須氏の領土を拡張した高資であったが、宇都宮氏の恨みを買い、宇都宮氏家臣芳賀高定の謀略により、1551年、高資は配下である那須七騎の千本資俊に千本城で誘殺された。 高資の跡を継いだのは、高資との対立により逐電していた異母弟の資胤であり、大田原資清を筆頭とする上那須衆の支援を受けていた。高資を支持してきたのは、大田原資清を讒言により失脚させた大関宗増であり、那須資房以来、政資、資胤を支持してきた大田原資清は、1542年に那須氏に復帰すると、宗増の嫡男増次を奇襲により殺害し、宗増は大田原資清の長男高増を養子として受け入れざるを得なくなる。この後も資清は、那須七騎の福原氏にも養子を送り込むと、那須氏麾下で最大の勢力を誇るようになった。 高資を誘殺した千本資俊が、資胤に許され側近として重用されたのも、高資の死が、このような重臣同士の勢力争いが背景にある事を窺わせる。 第20代当主資胤の治世においても、蘆名氏、結城氏と戦った小田倉の戦いで、資胤自身が負傷する苦戦を強いられ、家臣の大関高増、大田原綱清を叱責、責任を追及した事を契機に主従が争うようになる。大関高増は佐竹氏と結び、佐竹義重の弟義尚を那須氏当主として擁立しようと画策し、佐竹義重の援軍を得て、1563年から1567年までの間、那須領内に佐竹軍を引き入れて戦い、烏山城下まで侵攻する事もあったがいずれも撃退された。特に1566年の戦いでは、那須資胤は佐竹義堅と高瀬で戦って大勝し、義堅を降伏させた。 1568年には大関高増と和睦し、高増は剃髪して謝罪、那須資胤は隠居した。また佐竹氏とは1572年に武茂地方、茂木地方を割譲して和睦に至った。 第21代当主資晴は、1583年、父資胤の死去を機に来襲した佐竹義重、宇都宮国綱を撃退、1585年、薄葉原の戦いで宇都宮氏、塩谷氏を破った。資晴は、佐竹氏、宇都宮氏、結城氏と敵対しながら、北条氏、伊達氏と手を結び、勢力を維持したが、豊臣秀吉の小田原討伐に参陣しなかった為、改易となる。しかし重臣の大田原綱清の陳謝により、資晴の子資景に5000石の知行が与えられ、家名存続に至った。関ケ原で資景が東軍に味方し、那須藩1万4000石の大名となり、その養子資弥の代に烏山藩として旧領に復帰。しかし、その養子資徳の代にお家騒動により改易となった。 那須烏山市教育委員会の資料によれば、烏山城は標高206メートルの八高山に築かれた山城で、形が牛の寝ている姿に似ている事から臥牛城とも呼ばれ、城の東側は那珂川、西側は江川、南側は那珂川と江川、荒川が合流する氾濫原、北側は大小の谷が複雑に入りくむ丘陵地帯と那珂川の蛇行によって形成された狭地となっている。 城域は東西約370メートル、南北約510メートル、五城三郭と呼ばれる主要部からなり、防御施設として空堀、竪堀、堀切、土塁等が設けられ、本丸周辺には石垣も築かれている。 城域の東側、寿亀山神社がある七曲口から登城。入口手前の三の丸は、江戸中期の烏山藩主堀親昌により築かれ、それ以後本丸から三の丸の居館に藩政機能が移された。七曲口を登り、車橋、常盤曲輪を抜け、吹貫門の石垣を見物、正門を経て本丸(二の丸)、更に古本丸、中城、北城・・・どんだけ広いんだ?? 更に西に向かい大野曲輪、少し東に戻って南下し西城、若狭曲輪、その南西の名前の無い曲輪を経て、本丸を経由して筑紫山に登り、展望台経由で市役所側に下山。ゆっくり見て回って1時間半位でした。 植林が多いが草刈りがきちんとされているので郭の形状もはっきりしており、空堀や土塁、石垣がしっかり残っていて、説明も要所要所に配置され、順に見て回れば全体の構造が理解できる。古本丸周辺の空堀とか、本当に気分が上がります。今のところ、関東以北で一番好きな城かも。私は時間を忘れて見学してしまいました。 下山後、昼飯時に寄った、手打ちそば石川屋の蕎麦と天ぷらも美味で、量も満足。良い思い出になりました。
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K SK S
なかなかのハードパンチャー!中世の山城が大規模改修により近世城郭になっているので難攻不落。十二曲口から脱出した時にはヘロヘロ。
北条の足軽北条の足軽
山城派にはかなり楽しめる城跡 深い堀や土塁が多くあり立入禁止も少ないので冒険出来ます 室町時代後期に那須氏が築城しました、豊臣時代に小田原攻め不参加の仕置で城を出されるまで一族が守りました その後城主は変わりながら、麓に三ノ丸を造りそちらを主にして明治の廃藩置県まで役場として機能しました 車の方は城跡側の寿亀山神社を目指して下さい、役場側はハイカー向けです、寿亀山神社に突き当たると左側が登城口です、砂利の道に縦列駐車をします、頭から入れると帰りがツライので鳥居の所に頭を突っ込んでバックで駐車しましょう 神社周辺が江戸時代に造られた三ノ丸です、道路脇の江戸期の石垣を見て神社で参拝したら登城開始です 砂利道を歩くと七曲りの階段の登り口にパンフレット箱があります 忘れずに手に入れて下さい 白地図の縄張り図と古い縄張り図の両方が載ってます 見ないとかなり見逃しますよ 標高差は100mチョット、七曲りを登り常磐曲輪のキレイな石垣、曳橋跡の堀切やいくつかの堀切を越えながら本丸の石垣をみて土塁上を歩き廻り古本丸、中城、北城と進みます ここまでで一般観光の方は戻る方が良いかな 山城攻略派はここから本番、この先は整備が間に合ってなくて道は埋もれて案内板もありません 縄張り図を見ながら堀底や土塁を歩き大野曲輪から西城を目指します 私は西城下の段曲輪攻略中に迷子になりチョット涙目状態💦 分かりにくい若狭曲輪から何となくある道と堀切を強引に登って本丸入口に戻れました 城を攻め落とした気分になれました 12月初旬、写真は一応時系列で並べてます
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那須七騎史跡 別名臥牛城。 2022年5月7日来訪。 那須七騎の主家である那須氏の本拠。 那須七騎とは主家の那須氏を中心とした、一族の蘆野氏、伊王野氏、千本氏、福原氏と重臣の大田原氏、大関氏の七家からなる武家連合組織。 那須七騎については、それぞれが小規模な兵力しか持たない存在でしかなく、普通なら外敵の脅威に対抗する為に一族家臣が一致団結しそうなところであるが、全くまとまりがなく互いに佐竹氏や宇都宮氏等の周辺勢力を引き入れて潰しあい続け、戦国大名化に至らないまま戦国末期まで至ってしまったような家である。また、普通ならとっくに弱体化して周辺の大名に滅ぼされたり、属国になっていてもおかしくないのに、岩城氏、結城氏、宇都宮氏、佐竹氏等の相次ぐ外敵の侵攻に対し、なぜか勝利してしまう那須七騎は、同じく小勢力で北条氏、徳川氏等と亘りあった真田氏程メジャーではないが、戦の強さや配下の癖の強さは、真田氏に引けを取らない位、面白い存在である。 主家那須氏についてですが、出自は藤原道長の曾孫資家が下野国那須郡に下向し、資隆の代から那須氏を名乗ったという。源頼朝が伊豆で挙兵した際、資隆の子の内、十男の為隆と十一男の与一のみが源頼朝に従って平氏と戦った。治承、寿永の乱の屋島の戦いで、那須与一が平家が船上に掲げた扇の的を弓で撃ち落とした逸話は有名である。 こうした活躍もあって平家打倒後は、与一は兄らを差し置いて那須氏の当主となったという。また与一は平氏に与し他国に逃亡していた兄達を赦免し、領土を分け与え、それが福原氏、千本氏等、その後の那須七騎の祖となった。 室町時代に入ると、鎌倉公方足利満兼の就任に際し、関東管領上杉朝宗の提案で、宇都宮氏、小田氏、佐竹氏、千葉氏、長沼氏、結城氏と共に、鎌倉公方を支える家として、それぞれの国の守護を出す家柄として定められた関東八屋形として、屋形号を称する事を許される程、那須氏は興隆した。 ところが15世紀前半、第12第当主那須資之と弟資重の間で争うようになり、1416年、上杉禅秀の乱が勃発すると、資之は関東管領上杉禅秀方、資重は鎌倉公方足利持氏方に味方に付いた。持氏の勝利後、資重はその後ろ盾を得て下那須家として存続し、資之の家系の上那須家との分裂が恒常化し、那須氏の勢力は衰退した。なお烏山城は、下那須家を立てた資重が、1418年に築城し、下那須家の居城とした。 1514年、上那須家第15代那須資親の死により生じた上那須家の家督争いに介入した下那須家の那須資房が、子政資を上那須家当主に据え、上那須氏と下那須氏を事実上統一。 しかし、古河公方の内紛である永正の乱の影響を受け、資房隠居後に家督を継いだ政資と、その嫡子高資が、共に周辺勢力を味方につけながら父子で争い、高資が烏山城を奪って家督を強奪した。この後も政資と高資は父子で争いを続けるが、1544年には政資から高資に正式に家督を譲られたようである。 1549年には、古河公方足利晴氏の命で侵攻してきた宇都宮氏と抗争が始まるが、喜連川五月女坂の戦いにおいて、高資は300騎の兵で、宇都宮氏20代当主尚綱が率いる2500騎の軍勢と戦い、宇都宮尚綱を戦死させてこれを破り、その後の宇都宮氏の混乱に乗じて宇都宮氏の治めていた塩谷郡の一部まで領土を拡張した。 父と争い家督を奪い、周辺勢力とも戦いながら、胡散臭い癖のある家臣をまとめ上げ、喜連川五月女坂の戦いにおいて8倍強の兵力を有する宇都宮軍を破り大金星を挙げ、那須氏の領土を拡張した高資であったが、宇都宮氏の恨みを買い、宇都宮氏家臣芳賀高定の謀略により、1551年、高資は配下である那須七騎の千本資俊に千本城で誘殺された。 高資の跡を継いだのは、高資との対立により逐電していた異母弟の資胤であり、大田原資清を筆頭とする上那須衆の支援を受けていた。高資を支持してきたのは、大田原資清を讒言により失脚させた大関宗増であり、那須資房以来、政資、資胤を支持してきた大田原資清は、1542年に那須氏に復帰すると、宗増の嫡男増次を奇襲により殺害し、宗増は大田原資清の長男高増を養子として受け入れざるを得なくなる。この後も資清は、那須七騎の福原氏にも養子を送り込むと、那須氏麾下で最大の勢力を誇るようになった。 高資を誘殺した千本資俊が、資胤に許され側近として重用されたのも、高資の死が、このような重臣同士の勢力争いが背景にある事を窺わせる。 第20代当主資胤の治世においても、蘆名氏、結城氏と戦った小田倉の戦いで、資胤自身が負傷する苦戦を強いられ、家臣の大関高増、大田原綱清を叱責、責任を追及した事を契機に主従が争うようになる。大関高増は佐竹氏と結び、佐竹義重の弟義尚を那須氏当主として擁立しようと画策し、佐竹義重の援軍を得て、1563年から1567年までの間、那須領内に佐竹軍を引き入れて戦い、烏山城下まで侵攻する事もあったがいずれも撃退された。特に1566年の戦いでは、那須資胤は佐竹義堅と高瀬で戦って大勝し、義堅を降伏させた。 1568年には大関高増と和睦し、高増は剃髪して謝罪、那須資胤は隠居した。また佐竹氏とは1572年に武茂地方、茂木地方を割譲して和睦に至った。 第21代当主資晴は、1583年、父資胤の死去を機に来襲した佐竹義重、宇都宮国綱を撃退、1585年、薄葉原の戦いで宇都宮氏、塩谷氏を破った。資晴は、佐竹氏、宇都宮氏、結城氏と敵対しながら、北条氏、伊達氏と手を結び、勢力を維持したが、豊臣秀吉の小田原討伐に参陣しなかった為、改易となる。しかし重臣の大田原綱清の陳謝により、資晴の子資景に5000石の知行が与えられ、家名存続に至った。関ケ原で資景が東軍に味方し、那須藩1万4000石の大名となり、その養子資弥の代に烏山藩として旧領に復帰。しかし、その養子資徳の代にお家騒動により改易となった。 那須烏山市教育委員会の資料によれば、烏山城は標高206メートルの八高山に築かれた山城で、形が牛の寝ている姿に似ている事から臥牛城とも呼ばれ、城の東側は那珂川、西側は江川、南側は那珂川と江川、荒川が合流する氾濫原、北側は大小の谷が複雑に入りくむ丘陵地帯と那珂川の蛇行によって形成された狭地となっている。 城域は東西約370メートル、南北約510メートル、五城三郭と呼ばれる主要部からなり、防御施設として空堀、竪堀、堀切、土塁等が設けられ、本丸周辺には石垣も築かれている。 城域の東側、寿亀山神社がある七曲口から登城。入口手前の三の丸は、江戸中期の烏山藩主堀親昌により築かれ、それ以後本丸から三の丸の居館に藩政機能が移された。七曲口を登り、車橋、常盤曲輪を抜け、吹貫門の石垣を見物、正門を経て本丸(二の丸)、更に古本丸、中城、北城・・・どんだけ広いんだ?? 更に西に向かい大野曲輪、少し東に戻って南下し西城、若狭曲輪、その南西の名前の無い曲輪を経て、本丸を経由して筑紫山に登り、展望台経由で市役所側に下山。ゆっくり見て回って1時間半位でした。 植林が多いが草刈りがきちんとされているので郭の形状もはっきりしており、空堀や土塁、石垣がしっかり残っていて、説明も要所要所に配置され、順に見て回れば全体の構造が理解できる。古本丸周辺の空堀とか、本当に気分が上がります。今のところ、関東以北で一番好きな城かも。私は時間を忘れて見学してしまいました。 下山後、昼飯時に寄った、手打ちそば石川屋の蕎麦と天ぷらも美味で、量も満足。良い思い出になりました。
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山城派にはかなり楽しめる城跡 深い堀や土塁が多くあり立入禁止も少ないので冒険出来ます 室町時代後期に那須氏が築城しました、豊臣時代に小田原攻め不参加の仕置で城を出されるまで一族が守りました その後城主は変わりながら、麓に三ノ丸を造りそちらを主にして明治の廃藩置県まで役場として機能しました 車の方は城跡側の寿亀山神社を目指して下さい、役場側はハイカー向けです、寿亀山神社に突き当たると左側が登城口です、砂利の道に縦列駐車をします、頭から入れると帰りがツライので鳥居の所に頭を突っ込んでバックで駐車しましょう 神社周辺が江戸時代に造られた三ノ丸です、道路脇の江戸期の石垣を見て神社で参拝したら登城開始です 砂利道を歩くと七曲りの階段の登り口にパンフレット箱があります 忘れずに手に入れて下さい 白地図の縄張り図と古い縄張り図の両方が載ってます 見ないとかなり見逃しますよ 標高差は100mチョット、七曲りを登り常磐曲輪のキレイな石垣、曳橋跡の堀切やいくつかの堀切を越えながら本丸の石垣をみて土塁上を歩き廻り古本丸、中城、北城と進みます ここまでで一般観光の方は戻る方が良いかな 山城攻略派はここから本番、この先は整備が間に合ってなくて道は埋もれて案内板もありません 縄張り図を見ながら堀底や土塁を歩き大野曲輪から西城を目指します 私は西城下の段曲輪攻略中に迷子になりチョット涙目状態💦 分かりにくい若狭曲輪から何となくある道と堀切を強引に登って本丸入口に戻れました 城を攻め落とした気分になれました 12月初旬、写真は一応時系列で並べてます
北条の足軽

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那須七騎史跡 別名臥牛城。 2022年5月7日来訪。

那須七騎の主家である那須氏の本拠。 那須七騎とは主家の那須氏を中心とした、一族の蘆野氏、伊王野氏、千本氏、福原氏と重臣の大田原氏、大関氏の七家からなる武家連合組織。 那須七騎については、それぞれが小規模な兵力しか持たない存在でしかなく、普通なら外敵の脅威に対抗する為に一族家臣が一致団結しそうなところであるが、全くまとまりがなく互いに佐竹氏や宇都宮氏等の周辺勢力を引き入れて潰しあい続け、戦国大名化に至らないまま戦国末期まで至ってしまったような家である。また、普通ならとっくに弱体化して周辺の大名に滅ぼされたり、属国になっていてもおかしくないのに、岩城氏、結城氏、宇都宮氏、佐竹氏等の相次ぐ外敵の侵攻に対し、なぜか勝利してしまう那須七騎は、同じく小勢力で北条氏、徳川氏等と亘りあった真田氏程メジャーではないが、戦の強さや配下の癖の強さは、真田氏に引けを取らない位、面白い存在である。

主家那須氏についてですが、出自は藤原道長の曾孫資家が下野国那須郡に下向し、資隆の代から那須氏を名乗ったという。源頼朝が伊豆で挙兵した際、資隆の子の内、十男の為隆と十一男の与一のみが源頼朝に従って平氏と戦った。治承、寿永の乱の屋島の戦いで、那須与一が平家が船上に掲げた扇の的を弓で撃ち落とした逸話は有名である。 こうした活躍もあって平家打倒後は、与一は兄らを差し置いて那須氏の当主となったという。また与一は平氏に与し他国に逃亡していた兄達を赦免し、領土を分け与え、それが福原氏、千本氏等、その後の那須七騎の祖となった。

室町時代に入ると、鎌倉公方足利満兼の就任に際し、関東管領上杉朝宗の提案で、宇都宮氏、小田氏、佐竹氏、千葉氏、長沼氏、結城氏と共に、鎌倉公方を支える家として、それぞれの国の守護を出す家柄として定められた関東八屋形として、屋形号を称する事を許される程、那須氏は興隆した。 ところが15世紀前半、第12第当主那須資之と弟資重の間で争うようになり、1416年、上杉禅秀の乱が勃発すると、資之は関東管領上杉禅秀方、資重は鎌倉公方足利持氏方に味方に付いた。持氏の勝利後、資重はその後ろ盾を得て下那須家として存続し、資之の家系の上那須家との分裂が恒常化し、那須氏の勢力は衰退した。なお烏山城は、下那須家を立てた資重が、1418年に築城し、下那須家の居城とした。

1514年、上那須家第15代那須資親の死により生じた上那須家の家督争いに介入した下那須家の那須資房が、子政資を上那須家当主に据え、上那須氏と下那須氏を事実上統一。 しかし、古河公方の内紛である永正の乱の影響を受け、資房隠居後に家督を継いだ政資と、その嫡子高資が、共に周辺勢力を味方につけながら父子で争い、高資が烏山城を奪って家督を強奪した。この後も政資と高資は父子で争いを続けるが、1544年には政資から高資に正式に家督を譲られたようである。 1549年には、古河公方足利晴氏の命で侵攻してきた宇都宮氏と抗争が始まるが、喜連川五月女坂の戦いにおいて、高資は300騎の兵で、宇都宮氏20代当主尚綱が率いる2500騎の軍勢と戦い、宇都宮尚綱を戦死させてこれを破り、その後の宇都宮氏の混乱に乗じて宇都宮氏の治めていた塩谷郡の一部まで領土を拡張した。 父と争い家督を奪い、周辺勢力とも戦いながら、胡散臭い癖のある家臣をまとめ上げ、喜連川五月女坂の戦いにおいて8倍強の兵力を有する宇都宮軍を破り大金星を挙げ、那須氏の領土を拡張した高資であったが、宇都宮氏の恨みを買い、宇都宮氏家臣芳賀高定の謀略により、1551年、高資は配下である那須七騎の千本資俊に千本城で誘殺された。

高資の跡を継いだのは、高資との対立により逐電していた異母弟の資胤であり、大田原資清を筆頭とする上那須衆の支援を受けていた。高資を支持してきたのは、大田原資清を讒言により失脚させた大関宗増であり、那須資房以来、政資、資胤を支持してきた大田原資清は、1542年に那須氏に復帰すると、宗増の嫡男増次を奇襲により殺害し、宗増は大田原資清の長男高増を養子として受け入れざるを得なくなる。この後も資清は、那須七騎の福原氏にも養子を送り込むと、那須氏麾下で最大の勢力を誇るようになった。 高資を誘殺した千本資俊が、資胤に許され側近として重用されたのも、高資の死が、このような重臣同士の勢力争いが背景にある事を窺わせる。

第20代当主資胤の治世においても、蘆名氏、結城氏と戦った小田倉の戦いで、資胤自身が負傷する苦戦を強いられ、家臣の大関高増、大田原綱清を叱責、責任を追及した事を契機に主従が争うようになる。大関高増は佐竹氏と結び、佐竹義重の弟義尚を那須氏当主として擁立しようと画策し、佐竹義重の援軍を得て、1563年から1567年までの間、那須領内に佐竹軍を引き入れて戦い、烏山城下まで侵攻する事もあったがいずれも撃退された。特に1566年の戦いでは、那須資胤は佐竹義堅と高瀬で戦って大勝し、義堅を降伏させた。 1568年には大関高増と和睦し、高増は剃髪して謝罪、那須資胤は隠居した。また佐竹氏とは1572年に武茂地方、茂木地方を割譲して和睦に至った。

第21代当主資晴は、1583年、父資胤の死去を機に来襲した佐竹義重、宇都宮国綱を撃退、1585年、薄葉原の戦いで宇都宮氏、塩谷氏を破った。資晴は、佐竹氏、宇都宮氏、結城氏と敵対しながら、北条氏、伊達氏と手を結び、勢力を維持したが、豊臣秀吉の小田原討伐に参陣しなかった為、改易となる。しかし重臣の大田原綱清の陳謝により、資晴の子資景に5000石の知行が与えられ、家名存続に至った。関ケ原で資景が東軍に味方し、那須藩1万4000石の大名となり、その養子資弥の代に烏山藩として旧領に復帰。しかし、その養子資徳の代にお家騒動により改易となった。

那須烏山市教育委員会の資料によれば、烏山城は標高206メートルの八高山に築かれた山城で、形が牛の寝ている姿に似ている事から臥牛城とも呼ばれ、城の東側は那珂川、西側は江川、南側は那珂川と江川、荒川が合流する氾濫原、北側は大小の谷が複雑に入りくむ丘陵地帯と那珂川の蛇行によって形成された狭地となっている。 城域は東西約370メートル、南北約510メートル、五城三郭と呼ばれる主要部からなり、防御施設として空堀、竪堀、堀切、土塁等が設けられ、本丸周辺には石垣も築かれている。 城域の東側、寿亀山神社がある七曲口から登城。入口手前の三の丸は、江戸中期の烏山藩主堀親昌により築かれ、それ以後本丸から三の丸の居館に藩政機能が移された。七曲口を登り、車橋、常盤曲輪を抜け、吹貫門の石垣を見物、正門を経て本丸(二の丸)、更に古本丸、中城、北城・・・どんだけ広いんだ?? 更に西に向かい大野曲輪、少し東に戻って南下し西城、若狭曲輪、その南西の名前の無い曲輪を経て、本丸を経由して筑紫山に登り、展望台経由で市役所側に下山。ゆっくり見て回って1時間半位でした。 植林が多いが草刈りがきちんとされているので郭の形状もはっきりしており、空堀や土塁、石垣がしっかり残っていて、説明も要所要所に配置され、順に見て回れば全体の構造が理解できる。古本丸周辺の空堀とか、本当に気分が上がります。今のところ、関東以北で一番好きな城かも。私は時間を忘れて見学してしまいました。 下山後、昼飯時に寄った、手打ちそば石川屋の蕎麦と天ぷらも美味で、量も満足。...

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山城派にはかなり楽しめる城跡 深い堀や土塁が多くあり立入禁止も少ないので冒険出来ます

室町時代後期に那須氏が築城しました、豊臣時代に小田原攻め不参加の仕置で城を出されるまで一族が守りました その後城主は変わりながら、麓に三ノ丸を造りそちらを主にして明治の廃藩置県まで役場として機能しました

車の方は城跡側の寿亀山神社を目指して下さい、役場側はハイカー向けです、寿亀山神社に突き当たると左側が登城口です、砂利の道に縦列駐車をします、頭から入れると帰りがツライので鳥居の所に頭を突っ込んでバックで駐車しましょう

神社周辺が江戸時代に造られた三ノ丸です、道路脇の江戸期の石垣を見て神社で参拝したら登城開始です 砂利道を歩くと七曲りの階段の登り口にパンフレット箱があります 忘れずに手に入れて下さい 白地図の縄張り図と古い縄張り図の両方が載ってます 見ないとかなり見逃しますよ

標高差は100mチョット、七曲りを登り常磐曲輪のキレイな石垣、曳橋跡の堀切やいくつかの堀切を越えながら本丸の石垣をみて土塁上を歩き廻り古本丸、中城、北城と進みます ここまでで一般観光の方は戻る方が良いかな 山城攻略派はここから本番、この先は整備が間に合ってなくて道は埋もれて案内板もありません 縄張り図を見ながら堀底や土塁を歩き大野曲輪から西城を目指します 私は西城下の段曲輪攻略中に迷子になりチョット涙目状態💦 分かりにくい若狭曲輪から何となくある道と堀切を強引に登って本丸入口に戻れました 城を攻め落とした気分になれました 12月初旬、写真...

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石垣が有るのは本丸手前と三の丸跡。城跡に行くなら寿亀山神社前に駐車スペース有り。 私は市役所に駐車してしまった為、筑紫山の500段弱の階段を登り、毘沙門堂を経由して尾根伝いに本丸、寿亀山神社から街道に出て4〜50分歩きました。

応永25年(1418) 那須太郎資氏の二男 沢村五郎資重(下那須家初代)の築城といわれる。 永正11年(1514) 上那須家が内紛により滅亡し、那須家統一。 天正18年(1590) 8代資晴が豊臣秀吉の小田原征伐に遅参し所領を没収されるまで、約180年間那須氏の居城となる。 那須氏改易後、織田信長二男 織田信雄が2万石で入城し、2ヶ月間城主を務めた。 以後、成田氏・松下氏・堀氏・板倉氏と続き 天和4年(1681) 4代将軍徳川家綱の叔父にあたる那須資祇が2万石で旧領に復帰するも、貞享4年(1687)子の資徳の時、お家騒動で改易。 以後、永井氏・稲垣氏を挟み 享保10年(1725) 大久保常晴が2万石で入封後、8代約140年続き、明治2年(1869)の版...

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