南部氏史跡。九戸政実の乱の舞台。 2017年5月13日来訪。 wikiを見ると、九戸氏の出自は、南部氏の祖、源光行の六男、九戸行連とも、九戸に所領を持っていた結城親朝(南北朝時代の南朝方の武将)の配下の総大将小笠原政康の5代の孫小笠原政実とも言われている。歴代の事績は詳細不明とのことである。 九戸氏は元々九戸村を本拠としていたが、7代光政の時代に、現在の二戸市に進出し、九戸城を築城したといわれる。 九戸氏11代政実は、武将としての器量に優れ、1568年に安東氏から鹿角を奪還、1571年、不来方城での合戦で斯波氏を破り、弟、康実を斯波氏に婿入りさせ、弟、実親に南部氏24代当主晴政の二女を娶らせ、更に弟、政則を久慈氏に養子入れさせるなど、軍事だけでなく婚姻関係を使って勢力を拡大、糠部郡において、三戸南部氏、八戸南部氏と並ぶ勢力になっていた。 1563年の足利義輝の「光源院殿御代当参衆并足軽以下衆覚」には、外様衆として、上杉輝虎、武田晴信、織田信長、大友宗麟、北条氏康、氏政等の名前が記載され、更に関東衆として、南部晴政と並んで九戸政実の名前が併記されており、幕府からは九戸氏が南部氏と同格と認識されていたようである。 思うに、南部氏自体は、その広大な支配域を統べる為か、氏族や有力な家臣に地方の統治を任せ、その上に氏族連合的な緩い連帯による統治体制を布いていた為、外敵からの家臣の誘引や、大浦氏、九戸氏等の独立を招く要因が元からあったのではないかと。 1582年、南部氏最大勢力を築いた24代当主南部晴政が病没、更に跡を継いだ晴継が急死し、半ば強引に26代当主に田子信直が就任した事で、南部氏の支配の均衡が崩れる。 背景としては、 ●元々男子がいなかった晴政は、長女を、叔父田子(石川)高信の庶子信直に嫁がせて養子とした。 ●晴政に嫡男晴継が生まれた事により、晴政が信直を疎むようになり、命の危険を感じ三戸から逃れた信直を、北信愛が匿った事により、晴政と晴政を支持する九戸氏、信直を盟主とする南長義と北信愛連合との間で合戦となった。これについては、八戸政栄の仲介により和睦した。 ●その後、晴政が病没し、晴継が25代目当主となるが、晴政の葬儀の帰りに急死(暗殺されたとも)し、後継問題が再燃した。 ●跡継ぎの候補は、晴政の養嗣子であった信直か、九戸政実の弟で、晴政の娘婿の九戸実親に絞られ、実親を押す声が強かったが、北信愛が事前に根城南部氏の八戸政栄を味方に引き入れた事により、信直が当主となった。 ●これに不満を抱いた九戸政実は、大浦(津軽)為信の津軽侵食に対して動かず、対立状態のままであった。 ●1590年の秀吉の奥州仕置では、南部信直が当主として公認され、有力氏族の九戸氏が南部氏の一家臣に位置づけられてしまう。 というもので、九戸政実は、同年(1590年)、葛西、大崎氏の遺臣による一揆が、更に稗貫、和賀に広がるのを好機とし、1591年、三戸城への正月の年賀を欠席。南部宗家との対立が決定的となり、2月には九戸、櫛引、七戸、久慈等が蜂起して九戸政実の乱が勃発した。 劣勢に立たされた南部信直が、秀吉に援軍を求め、豊臣秀次を総大将とする3万5000兵からなる奥州再仕置軍が結成され、更に秋田実季、津軽為信等の奥州各地の軍が加わり、6万5000もの軍勢が乱の討伐に向かった。 9月1日に再仕置軍が九戸氏の所領を攻撃、2日には政実らが籠もる九戸城を包囲し攻撃を開始。 政実らも善戦したが、再仕置軍は九戸氏の菩提寺である長興寺の薩天和尚を使者に立たせ、偽りの和議を持ちかけた事により、政実は投降を決意、開城した。 しかし、再仕置軍は城内になだれ込み、城内の者を撫で斬りにし、政実ら九戸方の諸将は再仕置軍総大将豊臣秀次の命により、三ノ迫において斬首された。 以後、豊臣秀吉に組織的に対抗した者はいなかった為、九戸政実の乱は、豊臣秀吉天下統一最後の戦いとなった。
盛岡での出張を終えて、是非とも九戸政実の乱の舞台を見たいと思い、当時5月であるにもかからわす、気温14度の小雨降る寒さの中、服装の選択を間違え、半袖シャツで震えながら、この地を訪れました。 ガイドハウスで、年輩の方の説明を聞き、資料を閲覧。ガイドの方の説明も資料もわかり易く、大変参考になりました。 城趾も郭や堀等の城の設備がしっかりと残っていて、綺麗に整備されていたので、九戸政実の乱の当時の様相を想像しやすくて、とても感動しました。 とてもすば...
Read more九戸城は、豊臣秀吉による国内統一の最後の戦いといわれる九戸政実の乱で立て篭もった城で歴史的にも大きな意味を持った城です。 明応年間に南部氏の有力一族である九戸氏により築城された平山城で三方を側に囲まれた天然の要害でした。城内は本丸、二の丸、若狭館、石沢館と現在は住宅地やお寺になっている三の丸、南部信直が乱の鎮圧後、福岡城と改称し居館としたといわれる松の丸で構成されていたそうです。 念願だった九戸城に、8月の初旬に訪問し、二戸駅の観光センターでレンタサイクルを借りて約10分ほどの場所にありました。残念ながらかなりの範囲で発掘調査や整備中ということで本丸、二の丸の一部、石沢館などは見学できませんでしたが、堀底を歩いて切岸や土塁など地方の有力豪族の規模とは思えない城の規模で当時6万といわれる連合軍が苦戦したということもよくわかります。一方で、同じ土の城でも北条氏や武田氏のような複雑な技巧はあまり用いられず、三方向を川に囲まれた天然の要害を最大限活かして造ったというような城でした。また当時は奥州街道も隣接している交通の要所で、本来九戸氏はもっと東の方に本拠があったもののこの二戸に移り住んだということでした。特に当時の堀底から眺める本丸の岩石を活かした切岸は見応えがありました。当日は事前に予約してボランティアガイドの方に暑い中、私1人のために約1時間半案内していただきました。案内板の数も多くないので、1人で訪れたら見落とすポイントや当時の歴史の背景なども丁寧に案内いただき非常に参考になりました!また整備工事が終わっ...
Read more36ヘクタールという、びっくりするぐらいの大きさ。本丸、二の丸のあたりは、サッカー場や野球場が、何面もおかれるぐらいのひろさがあり、ほぼ平らで、眺めは雄大だ。これだけ広い面積が、あれば、兵糧の蓄えもかなりできそう。籠城戦でかなり長期間た戦えそうだ。実際、5000人の兵で豊臣側討伐軍の六万人の軍勢と対峙し、豊臣側は攻めあぐんだ。豊臣軍側からの和議申出を受けて、1日か2日だけの戦で開城。豊臣側は和議の約束を反故にして、全員を皆殺しにした。和議に応じて開城したのは、秋深まりそうな頃。冬将軍が来る直前であり、冬はマイナス20度ぐらいまで下がるという当時の状況を考えると、六万の秀吉軍が真冬に耐えられるはずもなく、長期籠城戦に持ち込めば、勝機はあったかもしれない。 少なくとも、豊臣側討伐軍は苦戦するのは間違いない。長期戦になると、見せしめのため、すぐ潰せと命令した秀吉から怒られるのを恐れ、焦って作戦ミスをする可能性はあった。 以上、資料館で伝えている資料をもとに記しました。 なんとも惜しまれる。豊臣秀吉に逆らった最後の戦国武将九戸政実の名前はもっと知られていいと思ったが、やや知恵が浅い印象。 教訓、敵の甘い誘いに乗ってはいけない。逆らうならば最後まで逆らうべき、一族の将来を案じるならば、最初から秀吉におべんちゃらを言いまくって、権力者の機嫌を取る。中途半端は身を滅ぼす。 そう教...
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