黒羽城の起源は、1576年(天正4年)に大関高増が白旗城から本拠を遷した事から始まった。 1590年(天正18年)の小田原征伐の際、主家の那須氏の那須資晴は小田原へ参陣しなかった為に改易されたものの、大関氏の当主である高増は、弟である大田原氏の当主大田原綱清の息子大田原晴清と共にいち早く参陣して所領を安堵(1万3000石)された。 1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いにおいて大関氏は東軍に与したので、戦後に徳川家康から加増されて1万9200石の大名となった。また、関ヶ原の戦いのとき、徳川家康が会津の上杉景勝に対する備えとして大規模な改修が行われた。 1664年(寛文4年)に江戸幕府4代将軍徳川家綱からの領知朱印状によって、大関氏の石高は1万8000石に確定となり幕末まで変更はなかった。1689年(元禄2年)に、松尾芭蕉が奥の細道の旅行中に4月3日から4月16日まで最長の14日間、城下に滞在した。江戸時代を通じ、関東では珍しく外様大名の大関氏の支配は続いた。1871年(明治4年)、廃藩置県により廃城となった 西は那珂川とそれに沿った崖に面し、東には松葉川が流れる丘陵の上に築かれ、本丸、中の丸、北の丸からなる内城を三の丸が囲むように配置された。 黒羽城跡は現在、黒羽城址公園となっていて空堀・土塁などが良好な状態で保存されている。三の丸...
Read more黒羽城は、地図で見る通り、西を那珂川、東を松葉川に挟まれた、天然の要害です。城を作るならここしかないだろうという恵まれた立地条件です。 とはいえ、奥州街道からは少し東に外れており、交通の要衝という感じではない気もしますが、経済圏の中心としてはどうだったのでしょうか。黒羽藩も一万八千石と、それほど大きな藩ではありません。水戸に繋がる那珂川水系の水運がどれくらい発達していたかが問題ですが、手っ取り早く分かる資料はなさそうですね。 城はかなり広大で、とても立派でした。一万八千石の城としては破格の大きさなように思います。維持がかなり大変だったと思うのですが。儲かっていたのでしょうか。 案内パネル等によると、城主の大関氏は小田原征伐と関ヶ原合戦を巧妙に切り抜けて、かつての主である那須氏を追い落として近世大名に成り上がったもののようです。 黒羽城の一番の見所は、本丸と二の丸を隔てる空堀ではないかと思います。巨大です。さすがに水戸城ほどではありませんが、かなり巨大な空堀です。関東の土の城を代表する空堀の一つなのではないでしょうか。現在は空堀の斜面にたくさんの紫陽花が植えられています。訪れたのは6月半ばで、ちらほら花が開いていました。見頃になると、ライトアップなどもあって、かな...
Read moreIt's a wonderful park. It is a well known place as Basho Matsuo, greatest Haiku poet of Japan, had...
Read more