The serenity and beauty of the surrounding Sugi Tree gardens coupled with the constant sound of running water is absolutely out of this world. The stately Sugi trees surrounding the shrine is also a sight to behold. What is most interesting though is the architecture of the shrine is a Japanese invention, it goes back to approximately 1800 years ago before Buddhism came to Japan and it's Chinese form of architecture. This shrine predates the Ise Jinja in Mie ken and the structure is made entirely of Sugi trees unpainted and planed. The jinja is dedicated to the goddess Amaterasu and this is evident in the criss crossed timber with the edges cut horizontal to the ground. You can buy some carp food and...
Read more古代より人々の営みを見守ってきた鬱蒼とした杉の巨木が生い茂る中に、直線を基調とする神明造り本殿の人工的幾何学構造が静寂な自然空間を矩形に切り取っている様は、視覚的にもコントラストが実に面白く、鑑賞対象としても極めて秀逸ですね。古人の優れた美学的センスが窺えます。
ワタシは宗教的建造物は公平を期するために、なるべく美術的歴史的側面から鑑賞しようと努めている傲岸不遜な種類の人間なのですが(笑)、そんなワタシでも神明宮の荘厳さに感銘を受けた、というか神威に打たれる思いでした。文句なしの美しさと素晴らしさ、さすがは国宝です(笑)。
現在の社殿は1636年(寛永13年)と、江戸時代初期に造替されたものです。国宝としては比較的新しい建物で、より古い重要文化財である室町時代の数多くの禅宗寺院が、順番待ちをしている状態(笑)では「なんで?」と思う人もいるかもしれません。
理由は社殿が伊勢神宮と同じように20年に一度の建て替えを、寛永年間まで滞りなく繰り返してきた事にあります。確実な建替えの記録があるのは室町時代からとなりますが、その創始は平安時代にまで遡ると考えられているのです。それだけに「神明造」形式の社殿としての古式がよく残されています。
「神明造」とは伊勢神宮に代表される穀倉から発展したとされる社殿で、社殿の形式としては神社の6割以上という圧倒的占有率を誇るデファクト・スタンダードです(笑)。しかし、その一方で社殿の簡略化や独自化が進み、本来の形式からかけ離れてしまっているものもあります。
仁科神明宮本殿の特徴としては、屋根の端を支える破風板が、そのまま伸びて千木(ちぎ)となり一体化していて、構造的に独立した屋根飾りではない事があげられます。また破風板には多くの神明造では省略されてしまっている、それぞれ左右4本の「鞭懸」(むちかけ)もしっかり取り付けられています。 これは供物の稲束を懸けるためのものとも言われていますが、詳細は不明です。意匠的になかなか面白いです。
さらに構造力学的には、あまり意味が無いので(笑)...
Read more仁科神明宮(にしなしんめいぐう)。 旧県社。
資料によると、 古来、安曇郡一帯は諏訪神社と穂高神社との力が交々深く及んでいた地方であるが、神明宮に関する限り、創祀以来御祭神は御一座のままである。神明宮の創祀は皇大神宮御領であった仁科御厨の鎮護のため、仁科氏によって伊勢神宮内宮が勧請されたことに基いている。
1192年(建久3年)8月、二所大神宮神主が職事の仰せによって神領の仔細を注進したものを編輯した「皇大神宮建久己下古文書」によれば、当時信濃国には僅かに麻績(東筑摩郡麻績村)・長田(長野市若穂)・藤長(長野市篠ノ井)及び仁科の四御厨しか現存せず、しかも仁科に限り「件御厨往古建立也、度々被下宣旨、所停止御厨内濫行也」と注記し、当時既にその創建の年次が不明であったと述べており、信濃で最古の御厨と推定される。信濃国内の御厨は後世の立荘も含めて全て伊勢神宮領であった。
神宮雑例集の記事によれば、信濃に初めて神戸が封ぜられたのは後冷泉天皇の1048年(永承3年)12月のことであるから、御厨の建立はそれ以後とみられる。国司から荘園整理の干渉を受けたが、宣旨により内宮の御厨となった。
その一方で、仁科氏は御厨以外の自領を荘園として開発し、仁科荘を成立させた。承久の乱において仁科盛遠が、後鳥羽上皇の帷握に参じ奉り、越中礪波山の戦いに戦死してから、所領は一旦幕府に没収するところとなり、改めて後堀河天皇の父・守貞親王に奉献されたのであるが、親王はこれを皇女式乾門院に譲り、門院は更に後堀河天皇の第一皇女室町院に伝え、仁科荘は室町院領となった。
『神鳳鈔』に見える仁科御厨の領域はわずか40町で、安曇郡矢原御厨の1691町と比べれば遥かに狭小であるが、郷土史家の一志茂樹の推定によれば、仁科荘成立後も、御厨は完全にその神領を保っており、1376年(永和2年)の棟札に見られるような整った式年造営が維持された、とする。
神明宮が創祀以来20年一度の式年造替を滞ることなく今日まで継続し、しかもその祭祀・神事等に古式を伝えて厳かに之を執行し、少しも衰徴の跡を見せずして御厨神明たるに相応しい伝統を持続してきた事実に顧みるとき、相当後年まで神役を奉仕していたのではないかと想像されるのである。殊に領家であった仁科氏は藤原時代以降500年間、信濃の於ける古族であり名族である家門の誇りを伝えてその勢力を張り、しかも勤王の精忠に終始して戦国時代末期まで及んでいたことに思いを致した場合、時代の波に動かされることなく、深い伝統と信仰とをもった御厨神人等と共にその忠誠を果たしたであろうことが想見出来るのである。
仁科神明宮2棟(本殿、中門):ともに寛永13年(1636)の造営で、江戸時代初期の端整な建築である。神明造の建築物としては、わが国で唯一の国宝である。 とあります。...
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