12/01/2024
I revisited here for the first time in like 10 years and they repainted the main building of the temple in bright red, which was the same as what I recalled when I visited last time.
Goshuin or 御朱印 was ¥500 and they have three options to choose from. They do hand-written calligraphy. There are some space for like five cars to park inside the property. No public bathroom.
Ginkgo trees were over but could still enjoy red momiji leaves. The more you go up, the more steep the stairs they get. Some people might feel scared from the view of the temple because it’s kind of high...
Read more直書きの御朱印いただきました。
標高30mの石塚山(石塚の森)の中腹の岩石上に本堂があり、入母屋造瓦葺き、間口三間、奥行四間、欄干・回廊をめぐらした懸崖造り(朱塗り)で、石積みの基壇の上に本堂内陣まで貫通している通し柱2本を含め26本の柱によって支えられている。
天平3年(731年)行基が東国巡錫の折、不動明王の尊像を刻み海難除けを祈願し開基したとされ、その後平安時代の初め弘法大師(空海)が関東教化の折、現在の場所に移し建立して民衆救護のため大護摩を催し民福増進の秘法を行ったとされる。本堂には、不動明王と「こんがら」「せいたか」の二童子が安置され、古来より浪切不動院と呼ばれ海難防止に寄与してきた。現在は海岸が後退したため海上からは見えないが、遭難しそうになった船が常夜灯の灯りによって救われたという逸話も残されている。
明治維新後その役目を終え、文化遺産として現存している。また、本寺の円頓寺は大同4年(809年)に橘諸兄の末孫日和大膳大夫景吉が建立したとされる古刹であるが、一旦廃絶し建治3年(1277年)に再興され、天和年間(1681年-1684年)には荻生徂徠が朱子学の基本書ともいえる「四書大全」を学んだところと言われる。しかし明治維新で再び廃絶し現在は公民館になっている。
本堂の創建年代について明確な記録は無いが、改修に当たって発見された棟札に元和4年(1618年)と記されていたと伝えられており、現在の本堂の建立時期は少なくとも江戸時代初期にまで遡ると考えられる。その後何度か本堂の改修が行われ、明治以降も明治45年(1912年)と昭和30年(1955年)に改修が行われている。昭和49年(1974年)には基礎石積工事が完成し、懸崖造りの維持保存が...
Read moreあまり観光資源のない山武市の中で、非常にフォトジェニック(まあ、バエるってやつか)なお寺である。 山門に入る前から、鮮やかな紅色の櫓とその上に建つ本堂が見えてくる。駐車場に車を置いて、三十メートルほどの小高い山を登っていく。 本堂は、近くで見ても最近塗り上げられたような真新しさを感じさせる。眺望もよいのだが、堂の周囲の回廊は、たいがいの大人の腰より下くらいの高さの欄干で囲まれているだけである。よろけたり目まいでもすれば、確実に転落しそうで、高所恐怖症気味の当方などは、思い出しても脚がムズムズする。まじめな話、気をつけたほうがいい。
天平年間(729~749)に行基が海難除けの不動尊像を刻み、弘法大師がこれを当地に移して寺を建てたという寺伝らしいが、残念ながらよくあるビッグネームを引っ張り出した「伝説」と考えざるを得まい。本堂の創建は、元和4(1618)年の棟札が発見されているというので、江戸時代初期だというのは信憑性が高いだろう。
境内の掲示によれば、明治時代後期には隣接地に鉱泉が湧くのを発見され、旅館「成東館」が建てられ、保養地として有名になった時期もあるという。半井桃水(樋口一葉が恋心を抱いた有名作家)も支援者だったそうだ。尾崎紅葉、徳田秋声、岡本綺堂、泉鏡花などの文士も湯治に訪れたというから、いまの成東の寂しさからはちょっと...
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