四国遍路第87番札所「長尾寺」は、香川県さぬき市長尾町の中心部に建っているお寺です。 四国遍路の寺では最後のフラットな境内です。 当山は、聖徳太子の開創と伝えられている。古くより聖武天皇( 724)、天平11年( 739)に行基菩薩がこの地を訪れ、霊感を得られ柳の木「楊柳(ようりゅう)」をもって聖観世音菩薩像(三尺五寸、約1メートル)の尊容を刻み本尊とし、 堂宇を建立して安置した。 大同年間( 806- 810)に空海上人が、当山にて年頭七夜五穀豊熟、国土安穏を祈念された。その後、空海上人が唐に渡る前にこの地を訪れ、護摩修法を行い人々に護摩符を授けた。唐から帰国した空海は、天長2年( 825)堂宇を建立し、第87番札所として定められた。 古記には、“天長二年八月左大臣冬嗣公が再興されて以来、往来の人々参籠して二世の願望を満足せり。”とある。 元慶( 877- 885)年中、菅原道真公の知識と言われた明印法師もこの寺に往持した。師、はなはだ博学多通にして、そのほまれ帝都にも達した。 菅公筑紫左遷の砌、志度房崎の沖に馳せ参じ「不期天上一円月。忽入海西万里雲」という句を贈り公は幼時の自画像を呈せられ自在天堂に祠る。さらに屋島寺の覚遍法師等々名匠・硯徳相次いで往持する。 本尊御開帳のこと、文永元年(1264)、永仁六年(1298)及びこの前後に開帳されたが、しばしば豪族の戦乱により諸堂ことごとく焼失し寺の縁起・ 記録等灰燼となった。しかし本尊は不思議に残り爾来御秘仏として今参詣群衆のために拝まれ、ひとしくその利益を蒙った。 その後慶長年間(1596-1615)生駒公の国守の時、新に堂宇を建立して信仰された。この時より「長尾の観音さん」と呼ばれる。天和元年 (1681)には、藩主松平公が堂塔を寄進し、元禄二年(1689)藩主松平頼重公の命により、天海僧正によって真言宗から天台宗に改宗した。当国七観音 随一に指定、仏秘餉料田を寄進、今の堂塔、仁王門、御成門等元禄七年(1694)に造営され、現今の基礎を固められる。 明治御維新後、本坊は、高等小学校、警察署、郡役所等公共に提供、大正七年(1918)還付、旧に復し、昭和三五年(1960)昭和大営繕を敢行、延暦寺天台座主貎下の御親教並びに霊場寺院及び宗内外の諸寺院の出仕を仰ぐ。この時より別格本山となる。 年々歳々多数の参詣、参籠を見、本坊、客殿等一新、日々法燈、香煙絶ゆる間なく今日に至る。 仁王門には四㍍余の大草鞋(ワラジ)がかかり、右に大師堂、左に護摩堂が配置されている。仁王像は、志度浦からここまで運ぶ者がおらず、住職が祈願するとここまで歩いて来たと言う伝説が残っている。付近には静の剃髪塚や禅僧の墓もまつられている。 門前に元冦の役出征将兵の霊を慰めるために建てられた「経幢」(国重文)は、鎌倉時代から栄えたこの名刹を物語っており、また吉野山で義経と惜別した静...
Read moreAnother beautiful temple on the Shikoku Buddhist Pilgrimage. There is the tomb of a woman named Shizuka Gozen, who was the lover of Minamoto Yoshitsune. After Yoshitsune was killed, Shizuka entered the...
Read more四国八十八ヵ所霊場の参拝でお伺いしました。 天台宗のお寺で浦陀洛山観音院長尾寺といい、霊場第八十七番札所になります。 御本尊は聖観世音菩薩です。 長尾寺は明治維新以後本坊は学校や警察・郡役所などの公共施設に提供されたお寺で地元では「長尾の観音さん」や「力餅・静御前得度の寺」として親しまれています。 開創は聖徳太子という説がありますが天平十一年(739年)に行基菩薩の開創の説が一般的です、行基がこの地を歩いていると道端に楊柳の霊夢を感じてその木で聖観世音菩薩を彫造し本尊としました。 その後弘法大師がこの寺を訪れ、入唐が成功するように年頭七夜に渡り護摩祈祷を修法して国家安泰と五穀豊穣を祈願されました。 唐から戻った大師は、再びこの地を訪れ「大日経」を一石に一字ずつ書写し供養塔を建立してその時に真言宗に改宗して長きに渡り多くの天皇から帰依されたお寺でしたが、長宗我部氏の侵攻による天正の兵火により本堂以外は灰燼に帰します慶長年間(1596年~1615年)生駒氏が国主の時に復興する。 その後も、高松藩主の初代藩主の松平頼重公が元和元年(1615年)に堂塔を寄進し伽藍を整備した。 この頃に天海僧正により真言宗から天台宗に改められた、今に伝わる堂塔や仁王門などはこの頃(元禄年間...
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