奥の細道 第17の段 「宮城野」 曹洞宗の寺。旅先で訪れる同門の寺は深い安堵感を感じます。 既に面影は薄いですが、奥の細道のまさに「おくの細道」はこの寺とこの付近、七北田川沿いを指します。 奥の細道を定義したのは、本文ので芭蕉を案内した畫工加右衛門(北野加右衛門 曾良旅日記は加衛門)の師匠大淀三千風らによって定められたと聞きます。本文の「年比さだかならぬ名どころを考置き侍れば」とあるように、名所・歌枕の所在調査で民間の中心人物が大淀三千風です。ちなみに大淀三千風は俳人で加右衛門も俳句に通じていました。 芭蕉も仙台で大淀三千風を訪ねますが、旅に出ていて逢えなかったとのことです。 手前同様、奥の細道に関する投稿されている方は多いのですが、この付近の投稿を目にしないのは不思議です。知名度が低いのと、塩竃神社の鎮守の杜に奥の細道の石碑があるからでしょうか? 本文では「おくの細道の山際に十符の菅有り」とあり、この地「岩切」は草鞋(わらじ)の材料である(十符)菅(すげ)の名産地であったと記されています。芭蕉が、この物語の題目に据えた菅畑に細く延びる径は心に深く留める風景であったのでしょう。 草鞋も簑も使用しなくなった現在。山の峰々と七北田川の流れは不変ですが、芭蕉が愛でた風景は読者の想像の中にのみ存在します。(後の人間が何か目印を残すのは野暮ということでしょうか?先生、出来の悪い生徒は先生のご指導通りきちんと見えていますでしょうか?)
誤解を恐れず書けば、須賀川の段から「不易流行」の範疇では定義できない要素が足されています。芭蕉の云う「風狂」、その風狂の人「藤原実方」の話はこの段で終焉となります。この段で詠んだ句の「あやめ」(「芭蕉の辻」の投稿参照)を源頼政が詠んだ歌の”菖蒲”を示唆しているものでしたらまさに、須賀川の五月雨に隠れた乙字ヶ滝(石河滝)で視た”目に映らない趣”の要素を感じます。琵琶法師が奏でる「田植ゑうた」最初の物語は中将実方でした。 山際の「十符菅」の材料であります「蓑」「笠」を思い浮かべ塚には五月雨を理由に敢えて訪れなかった芭蕉の深慮がこの場所を引き立てているのかもしれません。 ネット社会になって、映像化が容易くなった現在、 「世の人が見つけぬ花」はどのような花でしょうか? 「古鏡さん、軒の栗ですよ」 なんてクイズ番組の回答者みたいな”答”えもらったらがっかりしますけれど…。
<補足> 手前は義経は大嫌いですが、源頼政贔屓です。手前の菩提寺には頼政と敵対した(先祖の恩人)足利又太郎(藤原姓足利家)の塚があって、やがては塚を並べて眠ることになります。頼政とは幾許の因縁を感じます。 頼政の歌の背景を補足しますと、 頼政は、2回目の鵺(ぬえ:目に見えない変化の者)退治の際、暗闇の中にいる鵺を見事に射止めます。1回目に射止めたとき「弓はり月のいるにまかせて」(簡単に訳すと”まぐれですよ”)と謙遜し、2回目も見事に射止めた頼政の心眼を称えて、12人の美女から菖蒲御前を選ばせたものだと考えます。それに”応”えて「五月雨(さみだれ)に沢べの真菰(まこも)水たへて いづれあやめと引きぞわづらふ」(梅雨の雨に水嵩が増して真菰は水の中にある。水の中からあやめを選ぶのに悩む)と詠みます。先方にも女性にも失礼の無いことを慮った見事な対応です。頼政には後にも先にも全てのものが見えていたのですね。ただただ感服です。 芭蕉は「白河の関」の段でも頼政の歌を引いています。あやめと頼政の歌を結びつけているのは、手前の勝手な判断ですが、重要語句である「五月雨」や実方と「菖蒲」。手前より強い弓を引く者は数多いらっしゃいますが、あながち射た矢は的を外して...
Read more天文9年(1540)に創建されたと言われています。それ以前は東光寺城と呼ばれる山城だったそうです。築城された時期などは不明ですが城主は余目氏と呼ばれ、余目氏は鎌倉時代に奥州探題であった留守一族の中でも重臣でした。余目氏旧記には弘安3年(1280)に留守氏5代家信の三男で、家尚が宮城郡内に領土を与えられ「岩切余目館」に入ったと記されているそうです。ですから、築城はその年代以前になると推察されます。 寺の敷地内には鎌倉時代から室町時代にかけて造られた石窟があり、石窟の中には薬師如来や阿弥陀如来などの石仏が刻まれています。石窟は七北田川を見下ろす小高い丘の南斜面に刻まれており、石仏の風化具合から長い年月をこの地で過ごしてきたことを...
Read more今市橋周辺は、近くに八坂神社があり、多賀城にも隣接しているので、古代にはかなり栄えた地域だったんじゃないでしょうか。「東光寺」という名前を鑑みると、薬師如来を本尊とする天台宗のお寺ではなかったかと思います。円仁さんあ...
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