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Site of Suwahara Castle — Attraction in Shimada

Name
Site of Suwahara Castle
Description
Suwahara Castle was a Sengoku period yamashiro-style Japanese castle located in the Kanaya neighborhood of the city of Shimada, Shizuoka prefecture, Japan. The ruins have been protected as a National Historic Site since 1975.
Nearby attractions
Suwaharajo Visitor Center
1174 Kikugawa, Shimada, Shizuoka 428-0037, Japan
Suberazujizoson
1213 Kikugawa, Shimada, Shizuoka 428-0048, Japan
Kanaya Park
Kanayashinmachi, Shimada, Shizuoka 428-0047, Japan
Nearby restaurants
Asahi Sushi
2047 Kanayatamachi, Shimada, Shizuoka 428-0025, Japan
Nearby hotels
ホテル美佳里
1030 Kikugawa, Shimada, Shizuoka 428-0037, Japan
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Keywords
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Site of Suwahara Castle
JapanShizuoka PrefectureShimadaSite of Suwahara Castle

Basic Info

Site of Suwahara Castle

Japan, 〒428-0022 Shizuoka, Shimada, 金谷
4.3(293)
Open 24 hours
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spot

Ratings & Description

Info

Suwahara Castle was a Sengoku period yamashiro-style Japanese castle located in the Kanaya neighborhood of the city of Shimada, Shizuoka prefecture, Japan. The ruins have been protected as a National Historic Site since 1975.

Cultural
Outdoor
Scenic
Off the beaten path
attractions: Suwaharajo Visitor Center, Suberazujizoson, Kanaya Park, restaurants: Asahi Sushi
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Website
city.shimada.shizuoka.jp

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Reviews

Nearby attractions of Site of Suwahara Castle

Suwaharajo Visitor Center

Suberazujizoson

Kanaya Park

Suwaharajo Visitor Center

Suwaharajo Visitor Center

4.1

(130)

Closed
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Suberazujizoson

Suberazujizoson

3.7

(27)

Open until 12:00 AM
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Kanaya Park

Kanaya Park

3.5

(10)

Open 24 hours
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Things to do nearby

Fujieda: Experience traditional Japanese cuisine
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Fri, Dec 12 • 11:00 AM
426-0131, Shizuoka, Fujieda, Japan
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Nearby restaurants of Site of Suwahara Castle

Asahi Sushi

Asahi Sushi

Asahi Sushi

4.2

(5)

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Reviews of Site of Suwahara Castle

4.3
(293)
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5.0
2y

昨日島田市街に一泊し、大井川の渡し跡、島田宿川越遺跡の少し上流に架かる橋を車で難なく渡り、諏訪原城本曲輪の東側の断崖絶壁を車で走り登って(もちろんくねった道路上であるが)、諏訪原城ビジターセンターの駐車場に辿り着いた。時間は朝の9時前である。まだ駐車場に車は1台もないし、もちろんビジターセンターは開いていない。開館時間が10:00~だから当然である。これはチャンスと思い、道路の向こう側から駐車場やビジターセンターの全体像を写真に収めようとしていると、軽トラックが1台入ってきた。ん~・・・という感じであったが、諦めて写真を撮っていたら、なんとビジターセンターの鍵を開けた。関係者のようである。おまけに、時間前だけど見学しても良いですよと声を掛けてくれた。城跡を巡った後に見学を予定していたので、城跡を巡るルート資料だけ頂き、お礼を言って後にした。朝からいい気分だった。

前置きが長くなってしまった。諏訪原城は以前から城跡が確り残った大規模な山城と聞いていたので、いつかは訪れてみたいと思っていた城である。期待を込めて、でも、あまり期待してしまうと逆にがっかりしてしまうことも多いので、ほどほどに期待して行った。行ってみたら、期待以上であった。丸馬出の深い三日月堀や曲輪を繋ぐ土橋なども、季節が冬で草がないので際立って見渡せ感動した。また、樹木も適宜伐採されていて、本曲輪東側の搦め手付近から崖下を覗くと、二段の堀(内堀?横堀?)も奇麗に確認することができた。因みに、城址碑は大手北外堀近くに最近建てられたものが、諏訪神社の曲輪に古いものがある。見学時間90分を予定していたが、とても間に合わなかった。しかし、今日はこの後、掛川城・掛川古城、高天神城、横須賀城、馬伏塚城と盛り沢山なので見切りをつけた。

さて、諏訪原城は、最初に信玄が簡単な砦を築いたという説もあるが、ビジターセンターのガイドの方(どういう方かは確認しなかった)は、それはないとのことであった。武田勝頼が天正元年(1573)遠江侵攻のために、家臣の馬場美濃守信春(信房)に命じて築いた城であり、城内に諏訪大明神を祀ったことから諏訪原城と命名したとのことである。ところが、翌々年の天正3年(1575)5月長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗れ、8月には諏訪原城も家康により落とされ、城兵は小山城へ逃れた。家康は武田氏由来の諏訪原城という名称を牧野城(牧野之城)と改めた。この後、家康は大手曲輪の増設や堀や塀の普請など度重なる改修を加えた。

因みに、どこまでが武田氏の遺跡で、どこからが徳川氏の遺跡なのか気になるところであるが、ビジターセンターには、平成16~27年度の発掘調査の結果、確実なのは本曲輪、二の曲輪東内馬出、二の曲輪東馬出との新説の説明パネル(写真あり)があった。しかし、私はどうも腑に落ちないのである。新説だと諏訪神社がある場所が城内から外れてしまうのである。諏訪原城の名前の由来と合わないのである。もっとも諏訪神社の立地につても根本的な疑問がある。神社をだいたいにおいて攻城戦の最前線である馬出曲輪に建てるか疑問である。諏訪神社が廃城となったずっと後、地域の民によって奥の本曲輪から里に近い場所に移設され、以後大切に祀られたというのであれば理解できるのであるが・・・。このことを私は現地で確認できなかったので残念である。

また、引っかかったことがもう一つある。家康が天正3年牧野城(元諏訪原城)を手に入れた後、今川氏真が城主(名目上の城主?、城番)になったことである。なぜなら、今川氏真は桶狭間で父義元が斃れた後、信玄と家康の今川領分割の密約により遠江をほぼ家康に奪い取られているのである。なぜ氏真が城主(城番)になったのか? この辺りは火坂雅志氏の小説「天下...

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4.0
1y

昨年の夏行く予定だったのですが、当日雨予報だったり、一緒に行く息子が掛川城で疲れが出ていたため、改めて一人で行くことに。 岡マラソンを走るため前泊したついでに少し足を延ばして新金谷駅まで行きました。 結構近いですね。 駅を降りて、せっかくここに来たらお城だけでなく旧東海道の石畳に行った方が良いとのことで、行ってきました。 坂道を上ったら旧東海道石畳入り口があります。 そこからさらに上っていくと石畳に到着です。 綺麗に敷かれた丸石が並んでいます。 木々の間の石畳がかなり良い感じです。 石畳を上って少し歩いたところに諏訪原城ビジターセンターがあります。 こちらに続100名城のスタンプとご城印がありますので、立ち寄りました。 まずはスタンプを押します。 続日本100名城の方はまだまだ先が長いですね。 ゆっくり楽しみたいと思います。 そしてご城印ですが、すんなり購入することが出来ません。 グッズ券売機というガチャガチャを300円でやることになります。 お金の管理が面倒なのでガチャガチャにしたのでしょうか。 ご城印以外にもクリアファイルや缶バッチなども300円です。 グッズ引換券を取り出し、受付に出したら無事ご城印をもらえました。 こちらのビジターセンターですが、しっかりと諏訪原城のことが学べます。 当時の城郭構造などは非常に分かりやすいです。 そしてジオラマになった丸馬出が真ん中に置かれています。 やはり立体で見ると攻めづらさがよく分かりますね。 当時は柵もあり、門もあり、なるほどこれならかなり攻めるのは難しいということが一目瞭然です。 そんな中、ジオラマの説明をビジターセンターの方がしてくれました。 そして隠れキャラがいることを教えてくれます。 まずはアシガールです。 先日漫画を読んだばかりなので、なんとなく親近感が湧きます。 次に大谷翔平。 なぜかバッドを持っている赤いユニホーム。 しかし、赤備えの鎧の中にいると分からないものですね。 最後がラグビーボールを持った人。 これもなかなか分かりません。 ジオラマだけでものすごい楽しめました。

そこから諏訪原城址へ。 まっすぐ歩いていくと丸馬出が見えてきました。 ちゃんと案内板もあってしっかりと整備されています。 丸馬出に近づいていくと大きい。 これは大きいです。 堀の部分が崩れていますが、先ほどのジオラマのおかげでしっかりとイメージが出来ますね。 そしてまっすぐ進むと再建された薬師門があります。 その先は崖になっているのですが、ここから見える富士山は素晴らしいですね。 この門を閉めると門と門の間に隙間があるそうです。 作りが悪いのではなく、敵が槍で門を閉まらないように挟んだとしてもわずかな隙間のおかげで閉めることができるとか。 かなり劣勢な状況ですな。 深い堀が続いていき、この向こう側の土塁の部分には木々が生い茂っています。 小さな馬出もかなり見ごたえがあります。 本郭から見える景色もまた素晴らしいですね。 そして諏訪原城の名前の由来の諏訪神社。 武田勝頼はもともと諏訪出身の姫の子供。 そのため武田家の正当な後継ぎとなれなかったなどありますけど、立派なものです。

帰りは元来た道を戻るのも何なんで、水の手曲輪から降りてみました。 結構急な斜面なんですが、道がちゃんとできていたので、ここを降りていけば道路に出れるだろうと思って進みます。 ちゃんと道路に繋がっていました。 こちらも諏訪原城址入り口となっています。 でも、先にビジターセンターに寄ってから見た方が良いかと思いました。 道を下って、駅に向かいます。 何処からも富士山が綺麗に見えていいですね。 ...

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1y

出入口を固める巨大な「丸馬出し」(写真参照)が周囲を取り囲み、これぞ武田流築城術の真骨頂!...

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chu “お城とお酒と一人旅”chu “お城とお酒と一人旅”
昨日島田市街に一泊し、大井川の渡し跡、島田宿川越遺跡の少し上流に架かる橋を車で難なく渡り、諏訪原城本曲輪の東側の断崖絶壁を車で走り登って(もちろんくねった道路上であるが)、諏訪原城ビジターセンターの駐車場に辿り着いた。時間は朝の9時前である。まだ駐車場に車は1台もないし、もちろんビジターセンターは開いていない。開館時間が10:00~だから当然である。これはチャンスと思い、道路の向こう側から駐車場やビジターセンターの全体像を写真に収めようとしていると、軽トラックが1台入ってきた。ん~・・・という感じであったが、諦めて写真を撮っていたら、なんとビジターセンターの鍵を開けた。関係者のようである。おまけに、時間前だけど見学しても良いですよと声を掛けてくれた。城跡を巡った後に見学を予定していたので、城跡を巡るルート資料だけ頂き、お礼を言って後にした。朝からいい気分だった。 前置きが長くなってしまった。諏訪原城は以前から城跡が確り残った大規模な山城と聞いていたので、いつかは訪れてみたいと思っていた城である。期待を込めて、でも、あまり期待してしまうと逆にがっかりしてしまうことも多いので、ほどほどに期待して行った。行ってみたら、期待以上であった。丸馬出の深い三日月堀や曲輪を繋ぐ土橋なども、季節が冬で草がないので際立って見渡せ感動した。また、樹木も適宜伐採されていて、本曲輪東側の搦め手付近から崖下を覗くと、二段の堀(内堀?横堀?)も奇麗に確認することができた。因みに、城址碑は大手北外堀近くに最近建てられたものが、諏訪神社の曲輪に古いものがある。見学時間90分を予定していたが、とても間に合わなかった。しかし、今日はこの後、掛川城・掛川古城、高天神城、横須賀城、馬伏塚城と盛り沢山なので見切りをつけた。 さて、諏訪原城は、最初に信玄が簡単な砦を築いたという説もあるが、ビジターセンターのガイドの方(どういう方かは確認しなかった)は、それはないとのことであった。武田勝頼が天正元年(1573)遠江侵攻のために、家臣の馬場美濃守信春(信房)に命じて築いた城であり、城内に諏訪大明神を祀ったことから諏訪原城と命名したとのことである。ところが、翌々年の天正3年(1575)5月長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗れ、8月には諏訪原城も家康により落とされ、城兵は小山城へ逃れた。家康は武田氏由来の諏訪原城という名称を牧野城(牧野之城)と改めた。この後、家康は大手曲輪の増設や堀や塀の普請など度重なる改修を加えた。 因みに、どこまでが武田氏の遺跡で、どこからが徳川氏の遺跡なのか気になるところであるが、ビジターセンターには、平成16~27年度の発掘調査の結果、確実なのは本曲輪、二の曲輪東内馬出、二の曲輪東馬出との新説の説明パネル(写真あり)があった。しかし、私はどうも腑に落ちないのである。新説だと諏訪神社がある場所が城内から外れてしまうのである。諏訪原城の名前の由来と合わないのである。もっとも諏訪神社の立地につても根本的な疑問がある。神社をだいたいにおいて攻城戦の最前線である馬出曲輪に建てるか疑問である。諏訪神社が廃城となったずっと後、地域の民によって奥の本曲輪から里に近い場所に移設され、以後大切に祀られたというのであれば理解できるのであるが・・・。このことを私は現地で確認できなかったので残念である。 また、引っかかったことがもう一つある。家康が天正3年牧野城(元諏訪原城)を手に入れた後、今川氏真が城主(名目上の城主?、城番)になったことである。なぜなら、今川氏真は桶狭間で父義元が斃れた後、信玄と家康の今川領分割の密約により遠江をほぼ家康に奪い取られているのである。なぜ氏真が城主(城番)になったのか? この辺りは火坂雅志氏の小説「天下 家康伝」によると、面白い説明がある。武田・徳川密約により氏真は信玄に攻められ駿府城から掛川城へ逃れた。今度はその掛川城を家康に攻められた。そこへ北条氏が仲介役として入り家康との和睦を調停した。氏真は掛川城を開城し沼津の大平城へ逃れ、以後北条氏の庇護を受けた。しかし、北条氏が武田氏と再度和睦したことにより相模国をあとにし諸国流浪の身となり京へ辿り着いた。その時京を支配していた信長が氏真の噂を聞きつけ蹴鞠の妙技を所望した。氏真は二つ返事で受け、褒美の金子を手に入れた。武田領となっている駿河への侵攻を目指す家康は、丁重な礼をもって氏真を京から招聘し牧野城へ配した。家康は遠江・駿河の地侍たちに今なお隠然たる影響力を持つ氏真を利用しようとしたというのである。参考までに・・・。しかし、今NHKの大河ドラマ「どうする家康」で描かれている氏真像とは全く違う感じである。《2023.2.1訪問》
ご機嫌おやじご機嫌おやじ
昨年の夏行く予定だったのですが、当日雨予報だったり、一緒に行く息子が掛川城で疲れが出ていたため、改めて一人で行くことに。 岡マラソンを走るため前泊したついでに少し足を延ばして新金谷駅まで行きました。 結構近いですね。 駅を降りて、せっかくここに来たらお城だけでなく旧東海道の石畳に行った方が良いとのことで、行ってきました。 坂道を上ったら旧東海道石畳入り口があります。 そこからさらに上っていくと石畳に到着です。 綺麗に敷かれた丸石が並んでいます。 木々の間の石畳がかなり良い感じです。 石畳を上って少し歩いたところに諏訪原城ビジターセンターがあります。 こちらに続100名城のスタンプとご城印がありますので、立ち寄りました。 まずはスタンプを押します。 続日本100名城の方はまだまだ先が長いですね。 ゆっくり楽しみたいと思います。 そしてご城印ですが、すんなり購入することが出来ません。 グッズ券売機というガチャガチャを300円でやることになります。 お金の管理が面倒なのでガチャガチャにしたのでしょうか。 ご城印以外にもクリアファイルや缶バッチなども300円です。 グッズ引換券を取り出し、受付に出したら無事ご城印をもらえました。 こちらのビジターセンターですが、しっかりと諏訪原城のことが学べます。 当時の城郭構造などは非常に分かりやすいです。 そしてジオラマになった丸馬出が真ん中に置かれています。 やはり立体で見ると攻めづらさがよく分かりますね。 当時は柵もあり、門もあり、なるほどこれならかなり攻めるのは難しいということが一目瞭然です。 そんな中、ジオラマの説明をビジターセンターの方がしてくれました。 そして隠れキャラがいることを教えてくれます。 まずはアシガールです。 先日漫画を読んだばかりなので、なんとなく親近感が湧きます。 次に大谷翔平。 なぜかバッドを持っている赤いユニホーム。 しかし、赤備えの鎧の中にいると分からないものですね。 最後がラグビーボールを持った人。 これもなかなか分かりません。 ジオラマだけでものすごい楽しめました。 そこから諏訪原城址へ。 まっすぐ歩いていくと丸馬出が見えてきました。 ちゃんと案内板もあってしっかりと整備されています。 丸馬出に近づいていくと大きい。 これは大きいです。 堀の部分が崩れていますが、先ほどのジオラマのおかげでしっかりとイメージが出来ますね。 そしてまっすぐ進むと再建された薬師門があります。 その先は崖になっているのですが、ここから見える富士山は素晴らしいですね。 この門を閉めると門と門の間に隙間があるそうです。 作りが悪いのではなく、敵が槍で門を閉まらないように挟んだとしてもわずかな隙間のおかげで閉めることができるとか。 かなり劣勢な状況ですな。 深い堀が続いていき、この向こう側の土塁の部分には木々が生い茂っています。 小さな馬出もかなり見ごたえがあります。 本郭から見える景色もまた素晴らしいですね。 そして諏訪原城の名前の由来の諏訪神社。 武田勝頼はもともと諏訪出身の姫の子供。 そのため武田家の正当な後継ぎとなれなかったなどありますけど、立派なものです。 帰りは元来た道を戻るのも何なんで、水の手曲輪から降りてみました。 結構急な斜面なんですが、道がちゃんとできていたので、ここを降りていけば道路に出れるだろうと思って進みます。 ちゃんと道路に繋がっていました。 こちらも諏訪原城址入り口となっています。 でも、先にビジターセンターに寄ってから見た方が良いかと思いました。 道を下って、駅に向かいます。 何処からも富士山が綺麗に見えていいですね。 諏訪原城を堪能しました。
ヤマ田太郎ヤマ田太郎
出入口を固める巨大な「丸馬出し」(写真参照)が周囲を取り囲み、これぞ武田流築城術の真骨頂! と城郭マニアからも極めて評価の高い城でした・・。 「でした」と言うのは最新の発掘調査・資料分析によると、どうやら武田氏時代の諏訪原城は本丸と二の丸の南側一部にすぎず、この城最大の目玉である正面の丸馬出しまで構築した訳ではないことが分かってきたからです。(写真参照) じゃあ、武田流築城術の代名詞とも言える「丸馬出し」を設置したのは一体誰なの??。 ハイ、それは「熱狂的」武田信玄ファンである、徳川家康の仕業に他なりません(笑)。 家康は三方ヶ原の戦いで徹底的にブチのめされた「天敵」である信玄を生涯尊敬し続け、その生き方を人生の指針としていた実に面白い人なのです。 まぁ天才的な上杉謙信や織田信長よりも、堅実な信玄の方がずっと参考になったのでしょう。 ワタシが約15年前に来た時は二の丸はまだ茶畑で、樹木が遺構全体に覆い被さって形状がよく分からない状態だったので、今回現場を見た時は本当に驚きました。キレイに周辺の木やヤブが切り払われ、名物の(?)丸馬出しの規模の大きさや空堀の深さが一目瞭然になってる!! いや、もう「素晴らしい」の一言。さらには雄大な富士山まで、城から望めるようになりました。 ところで古来より大井川が駿河国と遠江の国境線となってきたのですが、この城は駿河を支配下に置いた武田軍が川を越えた遠江側の敵地に築いた「橋頭堡」でした。城の前を通る国道1号線は、かつての「東海道」であり、侵攻のための補給兵站拠点として必要不可欠な要地につくられたのです。 敵地の中で孤立した場所にあり緊急時には川を越えて救援に行くのが難しいので、周りを武田軍得意の「丸馬出し」でガッチガチに固めて徳川家康の来襲に備えた、と言うのが今までの解釈でした。 しかし武田氏時代には無かったとすると「攻撃は最大の防御」で、「どうせ、あの小僧は攻めてこないだろう」と甘く見ていたのかもしれません。 実際に家康が失地奪還に動くのは信玄亡き後の勝頼の時代になってからで、「長篠の戦い」で大敗した武田軍が動きが取れない時を狙って行われました。1ヶ月ほどの攻城戦の後に城を手に入れた家康は喜び「牧之原城」に名前を改めた、とされていますが、現在は城内の諏訪神社にちなんで名付けられたという武田氏時代の「諏訪原城」の表記の方が一般的なようです。 どうやら勝頼の再侵攻に備えて家康が大規模改修を加えたのが現在の姿で、臆面もなく敵の武田流築城術を「丸パクリ」したところは、いかにも家康ですねぇ(笑)。勝頼が見たらびっくりした事でしょう。 この辺りの「良いものは何でも取り入れる」姿勢が、「天下人」になる秘訣なのかも。
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昨日島田市街に一泊し、大井川の渡し跡、島田宿川越遺跡の少し上流に架かる橋を車で難なく渡り、諏訪原城本曲輪の東側の断崖絶壁を車で走り登って(もちろんくねった道路上であるが)、諏訪原城ビジターセンターの駐車場に辿り着いた。時間は朝の9時前である。まだ駐車場に車は1台もないし、もちろんビジターセンターは開いていない。開館時間が10:00~だから当然である。これはチャンスと思い、道路の向こう側から駐車場やビジターセンターの全体像を写真に収めようとしていると、軽トラックが1台入ってきた。ん~・・・という感じであったが、諦めて写真を撮っていたら、なんとビジターセンターの鍵を開けた。関係者のようである。おまけに、時間前だけど見学しても良いですよと声を掛けてくれた。城跡を巡った後に見学を予定していたので、城跡を巡るルート資料だけ頂き、お礼を言って後にした。朝からいい気分だった。 前置きが長くなってしまった。諏訪原城は以前から城跡が確り残った大規模な山城と聞いていたので、いつかは訪れてみたいと思っていた城である。期待を込めて、でも、あまり期待してしまうと逆にがっかりしてしまうことも多いので、ほどほどに期待して行った。行ってみたら、期待以上であった。丸馬出の深い三日月堀や曲輪を繋ぐ土橋なども、季節が冬で草がないので際立って見渡せ感動した。また、樹木も適宜伐採されていて、本曲輪東側の搦め手付近から崖下を覗くと、二段の堀(内堀?横堀?)も奇麗に確認することができた。因みに、城址碑は大手北外堀近くに最近建てられたものが、諏訪神社の曲輪に古いものがある。見学時間90分を予定していたが、とても間に合わなかった。しかし、今日はこの後、掛川城・掛川古城、高天神城、横須賀城、馬伏塚城と盛り沢山なので見切りをつけた。 さて、諏訪原城は、最初に信玄が簡単な砦を築いたという説もあるが、ビジターセンターのガイドの方(どういう方かは確認しなかった)は、それはないとのことであった。武田勝頼が天正元年(1573)遠江侵攻のために、家臣の馬場美濃守信春(信房)に命じて築いた城であり、城内に諏訪大明神を祀ったことから諏訪原城と命名したとのことである。ところが、翌々年の天正3年(1575)5月長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗れ、8月には諏訪原城も家康により落とされ、城兵は小山城へ逃れた。家康は武田氏由来の諏訪原城という名称を牧野城(牧野之城)と改めた。この後、家康は大手曲輪の増設や堀や塀の普請など度重なる改修を加えた。 因みに、どこまでが武田氏の遺跡で、どこからが徳川氏の遺跡なのか気になるところであるが、ビジターセンターには、平成16~27年度の発掘調査の結果、確実なのは本曲輪、二の曲輪東内馬出、二の曲輪東馬出との新説の説明パネル(写真あり)があった。しかし、私はどうも腑に落ちないのである。新説だと諏訪神社がある場所が城内から外れてしまうのである。諏訪原城の名前の由来と合わないのである。もっとも諏訪神社の立地につても根本的な疑問がある。神社をだいたいにおいて攻城戦の最前線である馬出曲輪に建てるか疑問である。諏訪神社が廃城となったずっと後、地域の民によって奥の本曲輪から里に近い場所に移設され、以後大切に祀られたというのであれば理解できるのであるが・・・。このことを私は現地で確認できなかったので残念である。 また、引っかかったことがもう一つある。家康が天正3年牧野城(元諏訪原城)を手に入れた後、今川氏真が城主(名目上の城主?、城番)になったことである。なぜなら、今川氏真は桶狭間で父義元が斃れた後、信玄と家康の今川領分割の密約により遠江をほぼ家康に奪い取られているのである。なぜ氏真が城主(城番)になったのか? この辺りは火坂雅志氏の小説「天下 家康伝」によると、面白い説明がある。武田・徳川密約により氏真は信玄に攻められ駿府城から掛川城へ逃れた。今度はその掛川城を家康に攻められた。そこへ北条氏が仲介役として入り家康との和睦を調停した。氏真は掛川城を開城し沼津の大平城へ逃れ、以後北条氏の庇護を受けた。しかし、北条氏が武田氏と再度和睦したことにより相模国をあとにし諸国流浪の身となり京へ辿り着いた。その時京を支配していた信長が氏真の噂を聞きつけ蹴鞠の妙技を所望した。氏真は二つ返事で受け、褒美の金子を手に入れた。武田領となっている駿河への侵攻を目指す家康は、丁重な礼をもって氏真を京から招聘し牧野城へ配した。家康は遠江・駿河の地侍たちに今なお隠然たる影響力を持つ氏真を利用しようとしたというのである。参考までに・・・。しかし、今NHKの大河ドラマ「どうする家康」で描かれている氏真像とは全く違う感じである。《2023.2.1訪問》
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昨年の夏行く予定だったのですが、当日雨予報だったり、一緒に行く息子が掛川城で疲れが出ていたため、改めて一人で行くことに。 岡マラソンを走るため前泊したついでに少し足を延ばして新金谷駅まで行きました。 結構近いですね。 駅を降りて、せっかくここに来たらお城だけでなく旧東海道の石畳に行った方が良いとのことで、行ってきました。 坂道を上ったら旧東海道石畳入り口があります。 そこからさらに上っていくと石畳に到着です。 綺麗に敷かれた丸石が並んでいます。 木々の間の石畳がかなり良い感じです。 石畳を上って少し歩いたところに諏訪原城ビジターセンターがあります。 こちらに続100名城のスタンプとご城印がありますので、立ち寄りました。 まずはスタンプを押します。 続日本100名城の方はまだまだ先が長いですね。 ゆっくり楽しみたいと思います。 そしてご城印ですが、すんなり購入することが出来ません。 グッズ券売機というガチャガチャを300円でやることになります。 お金の管理が面倒なのでガチャガチャにしたのでしょうか。 ご城印以外にもクリアファイルや缶バッチなども300円です。 グッズ引換券を取り出し、受付に出したら無事ご城印をもらえました。 こちらのビジターセンターですが、しっかりと諏訪原城のことが学べます。 当時の城郭構造などは非常に分かりやすいです。 そしてジオラマになった丸馬出が真ん中に置かれています。 やはり立体で見ると攻めづらさがよく分かりますね。 当時は柵もあり、門もあり、なるほどこれならかなり攻めるのは難しいということが一目瞭然です。 そんな中、ジオラマの説明をビジターセンターの方がしてくれました。 そして隠れキャラがいることを教えてくれます。 まずはアシガールです。 先日漫画を読んだばかりなので、なんとなく親近感が湧きます。 次に大谷翔平。 なぜかバッドを持っている赤いユニホーム。 しかし、赤備えの鎧の中にいると分からないものですね。 最後がラグビーボールを持った人。 これもなかなか分かりません。 ジオラマだけでものすごい楽しめました。 そこから諏訪原城址へ。 まっすぐ歩いていくと丸馬出が見えてきました。 ちゃんと案内板もあってしっかりと整備されています。 丸馬出に近づいていくと大きい。 これは大きいです。 堀の部分が崩れていますが、先ほどのジオラマのおかげでしっかりとイメージが出来ますね。 そしてまっすぐ進むと再建された薬師門があります。 その先は崖になっているのですが、ここから見える富士山は素晴らしいですね。 この門を閉めると門と門の間に隙間があるそうです。 作りが悪いのではなく、敵が槍で門を閉まらないように挟んだとしてもわずかな隙間のおかげで閉めることができるとか。 かなり劣勢な状況ですな。 深い堀が続いていき、この向こう側の土塁の部分には木々が生い茂っています。 小さな馬出もかなり見ごたえがあります。 本郭から見える景色もまた素晴らしいですね。 そして諏訪原城の名前の由来の諏訪神社。 武田勝頼はもともと諏訪出身の姫の子供。 そのため武田家の正当な後継ぎとなれなかったなどありますけど、立派なものです。 帰りは元来た道を戻るのも何なんで、水の手曲輪から降りてみました。 結構急な斜面なんですが、道がちゃんとできていたので、ここを降りていけば道路に出れるだろうと思って進みます。 ちゃんと道路に繋がっていました。 こちらも諏訪原城址入り口となっています。 でも、先にビジターセンターに寄ってから見た方が良いかと思いました。 道を下って、駅に向かいます。 何処からも富士山が綺麗に見えていいですね。 諏訪原城を堪能しました。
ご機嫌おやじ

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出入口を固める巨大な「丸馬出し」(写真参照)が周囲を取り囲み、これぞ武田流築城術の真骨頂! と城郭マニアからも極めて評価の高い城でした・・。 「でした」と言うのは最新の発掘調査・資料分析によると、どうやら武田氏時代の諏訪原城は本丸と二の丸の南側一部にすぎず、この城最大の目玉である正面の丸馬出しまで構築した訳ではないことが分かってきたからです。(写真参照) じゃあ、武田流築城術の代名詞とも言える「丸馬出し」を設置したのは一体誰なの??。 ハイ、それは「熱狂的」武田信玄ファンである、徳川家康の仕業に他なりません(笑)。 家康は三方ヶ原の戦いで徹底的にブチのめされた「天敵」である信玄を生涯尊敬し続け、その生き方を人生の指針としていた実に面白い人なのです。 まぁ天才的な上杉謙信や織田信長よりも、堅実な信玄の方がずっと参考になったのでしょう。 ワタシが約15年前に来た時は二の丸はまだ茶畑で、樹木が遺構全体に覆い被さって形状がよく分からない状態だったので、今回現場を見た時は本当に驚きました。キレイに周辺の木やヤブが切り払われ、名物の(?)丸馬出しの規模の大きさや空堀の深さが一目瞭然になってる!! いや、もう「素晴らしい」の一言。さらには雄大な富士山まで、城から望めるようになりました。 ところで古来より大井川が駿河国と遠江の国境線となってきたのですが、この城は駿河を支配下に置いた武田軍が川を越えた遠江側の敵地に築いた「橋頭堡」でした。城の前を通る国道1号線は、かつての「東海道」であり、侵攻のための補給兵站拠点として必要不可欠な要地につくられたのです。 敵地の中で孤立した場所にあり緊急時には川を越えて救援に行くのが難しいので、周りを武田軍得意の「丸馬出し」でガッチガチに固めて徳川家康の来襲に備えた、と言うのが今までの解釈でした。 しかし武田氏時代には無かったとすると「攻撃は最大の防御」で、「どうせ、あの小僧は攻めてこないだろう」と甘く見ていたのかもしれません。 実際に家康が失地奪還に動くのは信玄亡き後の勝頼の時代になってからで、「長篠の戦い」で大敗した武田軍が動きが取れない時を狙って行われました。1ヶ月ほどの攻城戦の後に城を手に入れた家康は喜び「牧之原城」に名前を改めた、とされていますが、現在は城内の諏訪神社にちなんで名付けられたという武田氏時代の「諏訪原城」の表記の方が一般的なようです。 どうやら勝頼の再侵攻に備えて家康が大規模改修を加えたのが現在の姿で、臆面もなく敵の武田流築城術を「丸パクリ」したところは、いかにも家康ですねぇ(笑)。勝頼が見たらびっくりした事でしょう。 この辺りの「良いものは何でも取り入れる」姿勢が、「天下人」になる秘訣なのかも。
ヤマ田太郎

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