源頼朝の幕府創業を助けた三代目常胤をはじめとする、鎌倉時代以来の坂東の名族「千葉氏」の終焉の地となった城です。「そもそも千葉氏っていうぐらいなのに、何で千葉市じゃなくて佐倉市の城が本拠地になってるの?」思うのは極めて当然ですよね(笑)。千葉氏の物語と城の歴史についてご説明します。
もちろん当初は下総国千葉郡千葉荘(現在の千葉市中央区)に居たんですよ。しかし名族特有のグダグダでドロドロの内部分裂、有力家臣との軋轢等があって千葉氏は衰退の一途をたどります。
後には京都の室町幕府が支持する関東管領上杉氏と、対立する関東土着機関である古河公方の足利成氏のどちらを支援するかで深刻な内紛が生じてしまい、古河公方についた千葉氏庶流の馬加(まくわり)氏と有力家臣である原氏によって、上杉氏支持の嫡流の千葉胤宣が討たれて一旦は滅亡してしまいました。
しかし討った馬加氏の方も、幕府の指示で岐阜から駆けつけた、歌人としても有名な東常縁(実はこの人も千葉常胤の子孫)の追討を受けて滅びるグダグダぶり(笑)。 その後に馬加氏の遺児と家臣などの残党が、古河公方の協力を得て「新生千葉氏」として新規に旗揚げをした場所がこの本佐倉城という訳なのです。
千葉氏の苦難の物語はまだ続きます(笑)。時代はさらに下り戦国時代となりましたが、前述のように千葉氏としての正当性に少々難がある上に、主家を凌ぐ力を持つようになった原氏の専横を抑える事ができず、29代当主の邦胤は関東の新興勢力であった北条氏の妻を迎え、軍事経済面で助けを借りる事にしたのです。
コレが文字どおり「軒先を借して、母屋を取られる」結果となるとは想像しなかったでしょうね、千葉氏は完全に北条氏に乗っ取られてしまったのですよ(笑)。 邦胤が乱心した家臣に刺し殺されると、北条氏は佐倉に駐屯して軍事制圧下に置き、遺児が幼少である事を理由に千葉氏とは何の血縁も無い、北条氏四代当主の氏政の五男、直重を次期当主にするようにネジ込んできたのです。 30代当主、千葉直重の誕生です。このような過程から千葉氏当主の中で彼だけが、名前に千葉氏の証である「胤」の字を持っていません。
豊臣秀吉の小田原征伐の際には、当然のように北条氏の重要な戦力として全てが動員され、千葉氏は北条氏と運命を共にする事となりました。千葉氏滅亡後も本佐倉城は徳川氏によって維持されていましたが、1615年に現在の国立歴史民俗博物館の位置に新佐倉城が完成すると、この時に「本」佐倉城となり役割を終え廃城となっています。
城の構造としては、中央奥にあり室町時代から存在すると考えられる城山部、出城のように独立し馬出しを持つ向根小屋、台地上に区画されて家臣団の屋敷地や兵の駐屯地として使われていた荒上地区の大きく3つのパーツから成り立っています。(写真参照)。
このうち荒上と向根小屋地区は、入口近くに横矢がかかるように張り出しを設けた櫓台が存在する進んだ形式となっていて、北条氏による技術支援のもとに築造されたと考えられています。 荒上地区は北条氏の大軍を収容できるように広大なスペースが確保されており、一方向根小屋は数百人は収容可能な巨大な馬出により、防御だけではなく積極的な敵への出撃拠点として使えるようになりました。
縄張り全体としてはまとまりがなく、とっ散らかった印象もありますが(笑)、逆にそれを活かして敵が向根小屋を攻撃すれば荒上が背中を突き、荒上が攻撃されれば向根小屋が背中を襲うといった活用も出来ました。カッコよく言えば「双頭の竜」ですかね。
どっちにしろ同時に両方を包囲攻撃して城を攻略できる集団は、中央統一政権である豊臣政権ぐらいしかなく防御力は十分でした。近くの臼井城と違って過去に大規模な攻防の対象とはならなかった事から見ても、この城は堅城過ぎた...
Read more城に入ったのは、城山の北側の東光寺ビョウから。
東山虎口、ここに門があり、更にその先にももう一つの門。 一つ目を突破されても、二つ目の門で防いでいる間に左右の斜面上から攻撃する算段、よくできています。
東山馬場の端っこには見張り台。 なになに、ここからは筑波山も見えるのか。
うーん、今日は見えないな。 でも眺めは抜群、かつては印旛沼を渡ってくる舟もよく見えたことでしょうね。
東山馬場に駐車場があり、城方面を見上げると、現在はこの城跡唯一の建造物(?)である矢立。 板が並んでいるだけといえばそれまで、でも城っぽい雰囲気を醸し出しているかな。
Ⅳ郭とされている平坦地。 用途は不明とのことですけど、城山(本丸)や奥ノ山(二ノ丸)よりも一段低くて広いので、屋敷などの建造物があったんじゃないかと。
城山への通路。 ここは狭くて急坂、谷側は急斜面で城山に入るには90°の角があるんです。
なるほど、守りの造りになっているなぁ。
城山は想像以上に広く、複数の建物があったようです。 自然の山を切り崩して作ったんでしょうけど、かなりの大規模工事であっただろうことは容易に想像できます。
お隣の奥ノ山への通路。
往時は、城山から奥ノ山には橋がかけられていただろうとのこと。 とすれば、今通っているこの通路はさほど使われていなかったんじゃないかな。
奥ノ山もそこそこ広く、ここには妙見社があって、元服などの儀式が行われていたとされています。
想像以上の規模で、なかなか面白い城歩き。
城から南側の斜面を降りる斜面、竹に覆われて鬱蒼と暗い。
歩いていると、カン、カンという竹の当たる音。 あれ、そういえばあちこちにイノシシ注意という看板が出ていたな。
もしかしてイノシシ︎ いや、こんな竹の中を歩いている訳ないか。
降り切ったところには妙見社、千葉氏の守護神です。 奥ノ山にあったのを移設したらしいですけど、竹で覆われた山からの救出、信心深い人が頑張ったんだ。
根古谷の館という建物の前、本佐倉城の山を見渡せます。 城に攻めかかる敵がいたら、どこを突けば良いかがこの地からなら一目瞭然。
変わって現代の写真、土砂災害警戒区域の表示。 これを見ても、本城の南と東が急斜面であることがよくおわかり頂けると思います。
再び本城内にと、西側の通路を進もうと思ったら、倒れた竹に道を塞がれている… くぐるのが容易な高さにあるので、ここを進むのも実はそれほどの苦労はないんですけどね。
セッテイ山の周囲にある空堀。 ここも竹で覆われています。
セッテイというのは、接待のことではないかと解釈されているようで、ここに人質となった人たちがいたのではないかとのこと。 要は周辺豪族の妻子ですね。
確かに、この空堀は深いんです。 逃げられないようにするためのもの、説得力あるな。
再び斜面を登ると、あれ、竹の色が綺麗だ。 金明竹という種類、天然記念物として扱われている地域もあるんだとか。
そしてセッテイ山に、竹で覆われて、歩けるスペースはほとんどなし。
再びカンカンという音がして、もしかして本当にイノシシ︎ え?...
Read moreIt's an excavation site with none of the excavated things remaining 😅 It would have been better if some of the walls or structures still remained. Right now it's just an empty patch of trimmed grass. The links on the explanation boards lead to broken websites so the only way to get info about the site is to use Google translate. Nice for a bit of...
Read more