説明書より ーーー 慈悲山 增善寺(じひさん ぞうぜんじ)
增善寺は、白鳳二十一年(六八一)に法相宗の始祖道照法師が開いた真言宗の寺で、当時、「慈悲寺(じひじ)」と呼ばれていた。
明応九年(一五〇〇)曹洞宗に関心の深かった駿河の国守、今川氏親は辰応性寅禅師(しんおうしょうえんぜんじ)に帰依し、性寅を開山として七堂伽藍を整え、再興し、曹洞宗に改め、今川家官寺增善寺となった。
大永六年(一五二六)六月、今川家中興の祖と呼ばれた今川氏親が亡くなると、この寺で盛大な葬儀が営まれた。寺には、苔をむした氏親公の墓とともに四百六十年前に造られた等身大の木像が安置されている。
寺宝として、今川家古文書をはじめ、徳川家康寄進の天目茶碗・扇・硯などがあるが、これらは静岡市文化財資料館(浅間神社境内)に展示されている。
寺の裏山に南北朝期の安倍城跡がある。一大城塞網の拠点としての安倍城主狩野貞長との戦乱において多大な年月と戦乱の末、間もなく、今川氏は根拠地を駿府に移し、守護大名として、東海に君臨するようになった。
その後、たびかさなる内紛が起り、その渦中で幼少を過ごした氏親にとって、安倍城をひかえた自然の要塞の地「慈悲尾(しいのお)」に今川家の菩提寺として自らの安息の地を求めたのはけっして遇然のことではない。 昭和五十八年十月 静岡市 ーーー
境内の説明書より
今川氏親公
今川家は足利家の流れをくみ、足利絶えれば吉良が継ぎ吉良が絶えれば今川が継ぐとまでいわれた。始祖である国氏は居住していた三河国今川庄の地名をとり今川姓を名のる。
初代範国、二代範氏と続き七代氏親に至っては、一躍駿河・遠江の守護に任命される。氏親の誕生は文明二(1470)年叔父にあたる伊勢新九郎(北条早雲)の援助を得て、両国を駿河から遠江にまで広げ、検知を施行し、分国法「今川仮名目録」を制定し、戦国大名として歩みはじめた。
七代氏親の代、名声高き高尾山石雲院(牧之原市)崇芝性岱禅師(そうししょうたいぜんじ)のもとで修行をしていた辰応性寅和尚(しんのうしょういんわじょう)が、浄牧院(東京東久留米市) の住職となった。
その後、氏親より駿河の地にまねかれ、明応末年(1501)今川氏親は、辰応性寅の徳を敬慕し、帰依し、親交を結び増善寺の功徳主となり慈悲尾に大伽藍を建立。増善寺を今川氏親の菩提寺とし辰応性寅を増善寺の住職とした。これより氏親は、頻繁に車馬を連ね増善寺を往来し、禅理を究明。 大永六(1526)年六月二十三日没、 行年五十六歳 ...
Read moreうちの母親が父親の先祖で慈悲菩薩なんだって!という話を最近聞き、なんとなく慈悲にまつわる寺を探してたら慈悲山増善寺を見つけました! 近いし行ってみよっと思って行ってみました。
慈悲尾という地名があるんですね。
山門を抜け本堂に続く道がいい雰囲気。 増善寺には今川氏親の墓があることで有名なようです。 現在の静岡県中部を支配した戦国大名。 今川氏の墓は山を上がっていくとあります。
本堂には千手観音菩薩像があり、それを守るように四天王が配備してます。 7年に一度の御開帳される千手観音とは別物です。
「脚下照顧」と書かれてます。 調べてみたら「自分の足元をよく見なさい」「自分の足元をよく見て自分自身を顧みる」...
Read more今川氏親の菩提寺。 氏親は、北条早雲の妹の子供(甥)であり、正妻寿桂尼(歴史ドラマ女城主直虎で浅丘ルリ子が演じている)との間に、今川義元が生まれる。 又、ここは「駿河33観音霊場第16番」「駿河七観音の第二番」札所であり 千手観世音菩薩様をお祀りしている。 【聖武天皇が病にて臥せっていらした時、行基菩薩は夢にてお告げを受けました。 「駿河の山中にある楠木の巨木によって七体の観音様を刻み聖地とする事で、必ず聖武天皇の病は平癒する」 このお告げのもとに刻まれた七つの観音様をお祀りする聖地が、いまの駿河七観音です。 当寺の千手観世音菩薩様は七年に一度、御開帳いたします。...
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