以前から気になっており、今回只見線再開通記念に合わせ、お邪魔することが出来ました。
こちらは長岡藩家老河井継之助の終焉地としての施設で、終焉を迎えるまでの流れを伝える施設です。
河井継之助の河井家は、近江膳所藩本多家家臣説、蒲原郡河井村地侍説があります。 継之助の家系は、分家筋で物頭格の家柄です。
長岡城下で生まれ、武芸から藩校崇徳館で儒学を学び、その影響で陽明学に傾倒していったようです。 その後も学びながら、結婚し、同じ学び仲間を得ながら、役職などに就き、次第に改革推進派主要メンバーとなっていったようです。 更に学びを深めるため、江戸で佐久間象山などへ遊学しました。その間江戸では、黒船来航があり、藩へ意見を出し、それが認められ、長岡へ帰藩、藩の改革を行おうとしますが、反感を買うなどし、また奥羽、西国などへ遊学します。
その後帰藩しますが、長岡藩藩主が京都所司代に任じられると京へ、今度は老中任命で江戸へと、目まぐるしく場が変わり、継之助は所司代、老中辞任を求めますが、藩主分家を罵倒し、役を解かれます。
その後役職に復帰し、大政奉還を迎えます。上洛した継之助は議定所に徳川氏擁護の建言書を提出します。それに対する反応は無く、鳥羽伏見の戦いが始まります。 この際継之助は大阪警護でしたが、将軍が江戸に退いたのを知ると、江戸へ戻り、藩主を長岡へ帰し、江戸藩邸の整理をします。この際に家宝などを売却し、それを元手に米の売買、為替などで軍資金を増やし、ガトリング砲などを購入します。 この時ガトリング砲(最初期の機関銃)は日本に3つあるうちの、2つを長岡藩が所有することになります。
長岡へ戻った継之助は、迫る新政府軍に小千谷談判し、内戦を防ごうとしますが、これが決裂、ここから北越戦争になってきます。
北越戦争は主に長岡周辺で行われた戦争ですが、戊辰戦争を通して熾烈な戦争となりました。約3ヶ月間もの間、先に述べた最新の兵器、近代的な訓練で長岡藩兵は圧倒的な新政府軍に対し、当初互角に渡り合いますが、次第に戦略の差により、押され気味になり、長岡城を奪われます。しかし、八丁沖渡沼作戦を成功させ、長岡城を奪還します。 ところが、この際の作戦により、継之助は致命傷を負います。これにより、指揮能力、士気の低下、また米沢藩との共同奇襲も出来ず、長岡城は再度奪われます。
さすがの長岡藩も消耗激しく、会津へ落ち延びることになりました。 負傷の継之助も長岡から八十里峠から会津藩領只見まで来ますが、ここで力尽きることになります。
書いてて、段々長くなっていることに気づきここまでにします(笑)
なお、継之助が臨終を迎えたのは只見の医師矢澤家で、この矢澤家はダム計画で移転することになり、矢澤家を移築、それを囲むように建てられたのが、この施設となってます。 なので、継之助が最後を迎えた座敷も見ることができます。
隣には、この地で作られていた塩(山塩)の資料館もあり、ヘェ〜、ここで塩も作られて...
Read more司馬遼太郎の「峠」の映画公開(2020年9月→2021年7月に変更)の前に、小説を読み終え、この小説の主人公「河井継之助」の終焉の地に来てみたくてやって来ました。
幕末、日本に3台しか無かったガトリング砲。 機関銃という名前を彼が付けました。 当時、日本に3台あり、2台を長岡藩が所有し、1台を薩摩が船の艦尾に固定して使っていました。 従って、陸上戦闘で使用したのは長岡藩が初めてです。 射程距離は分かりませんが、小説では1分間に300発。1秒で5発ですね。 この記念館には1分で200発と書いてありました。 いずれにせよ、刀を振りかざして突撃して来る敵はなぎ倒されます。 幕末期に今の核兵器に相当する高額兵器を、石高わずか74000石の吹けば飛ぶような小藩が買えたのか、何故外国人は河合継之助に特別に売ってくれたのか。 それは小説を読むなり、現地で確認してみてください。
この後、このMapのすぐ北にある医王寺に彼のお墓があるのでお参りしました。 徒歩10分です。
映...
Read more以前から河井継之助という人物に興味を持っていましたが、役所広司さん主演の峠の公開を機会に記念館を訪ねてみようと思いました。 いずれ、長岡にも行ってみたいと思っていますが 今回はドライブを楽しめる只見をチョイスです。
こちらは河井継之助が亡くなった土地ですが、最後を看取った医師の矢沢家の子孫の尽力で立派な記念館ができたようです。 戊辰戦争と言えば会津藩の鶴ヶ城や白虎隊の話ばかりがクローズアップされますが、その陰で河井継之助のような立派な志を持った人物が波瀾万丈の人生の終末を迎えた話を詳しく知る事ができました。 資料の展示や画像での説明もわかりやすくて良かったです。
周囲には飲食店は無いの...
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