四国遍路第77番札所「道隆寺」は、香川県多度津町の平地に建っているお寺です。 第七十七番 【御詠歌】 ねがいをば仏道隆に入りはてて 菩提の月を見まくほしさに 潜徳院殿堂 本堂の左裏手。江戸後期の典医・京極左馬造公の墓所で、眼病にご利益があると信仰されている。 観音像 西国、秩父、坂東の百観音のほか、観音霊場として名高い各地の本尊、水子供養の観音像や交通安全の観音像など255体が建立されている。 道隆寺の歴史・由来 仁王門をくぐると、ブロンズの観音さんがずらりと並んで迎えてくれる。創建ころのこの付近一帯は広大な桑園で、絹の生産地であったようである。縁起によると、和銅5年、この地方の領主、和気道隆公が桑の大木を切り、小さな薬師如来像を彫造し、草堂を建てたのが寺の初めといわれる。道隆公は、周囲5メートル近い桑の大木が、夜ごと妖しい光を放っているのを見た。この光を怪しみ矢を射ると、女の悲鳴があり、乳母が倒れて死んでいた。嘆き悲しんだ道隆公は、その桑の木で仏像を彫り、草堂に安置して供養する。 大同2年(807)、道隆公の子・朝祐公は唐から帰朝した弘法大師に懇願し、弘法大師自ら90センチほどの薬師如来像を彫造、その胎内に父・道隆公の像を納めて本尊とした。 朝祐公は大師から授戒をうけて第2世住職となり、先祖伝来の財産を寺の造営にあてて七堂伽藍を建立、寺名は創建した父の名から「道隆寺」と号した。第3世は弘法大師の実弟にあたる真雅僧正(法光大師)が嗣ついで二十三坊を建立し、第四世の円珍(智証大師)は五大明王、聖観世音菩薩像を彫造して護摩堂を建立、次の第5世聖宝(理源大師)の代には「宝祚祈願所」となっている。高僧が相次いで寺勢は栄えたが、貞元年間(976〜78)の大地震による堂塔の倒壊や、康平3年(1060)の兵火、また「天正の兵火」に遭うなど興亡をくり返しながらも、法灯を守り続けている。 ここの次は、多度津町から丸亀市を東に進んで宇多津町に入り、青野山の麓...
Read moreWas immediately struck by the age of the wood from which the temple is constructed. Also the statuette arrays are beautifully arrayed. The wish I wished for came to pass, so that is an additional plus point for this temple. Deducted one star as didn't see...
Read more四国八十八ヵ所霊場の参拝でお伺いしました。 真言宗醍醐派のお寺で桑多山明王院道隆寺といい、霊場第七十七番札所になります。 縁起によれば和銅五年にこの地の領主の和気道隆公が桑の大木に夜毎怪しい光を放っているのを見て、この光を怪しみ矢を射ったところ女の悲鳴があり乳母が倒れ死んでいた。 嘆き悲しんだ道隆公はその桑の木で小さな薬師如来像を彫り草堂に安置して供養したのが寺の初めといわれている。 大同二年(807年)道隆公の子朝祐公は、唐から帰朝した弘法大師に懇願し弘法大師自ら彫造した九十cm程の薬師如来像の胎内に父道隆公の像を納めて本尊した。 朝祐公は弘法大師から授戒をうけて第二世住職となり先祖伝来の財産を寺の造営にあてて七堂伽藍を建立し寺名は父の諱から「道隆寺」と号した。 第三世住職は弘法大師の実弟にあたる真雅僧正(法光大師)が嗣ついで二十三坊を建立し、第四世住職円珍(智証大師)は五大明王像・聖観世音菩薩像を彫造して護摩堂を建立した、次の第五世住職聖宝(理源大師)の代には「宝祚祈願所」となっている。 高僧が相次いで寺勢は栄えたが貞元年間(976年~978年)の大地震による堂塔の倒壊や康平三年(1060年)の兵火また天正の兵火に遭うなど興亡を繰り返しながらも法灯を守り続けている。 寺はまた「目なおし薬師」としても知られている、境内左奥の潜徳院殿堂は江戸時代後期の丸亀藩御殿医の京極左馬造公の墓所である、左馬造は盲目であったが薬師如来の霊験で視力を回復し御殿医として活躍した人物である眼病にご利益があると信仰されている。 また境内には西国・坂東・秩父の百観音の他観音霊場として名高い各地の観音像など二百五十五体...
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