400円です。 入るか悩まれたら、入った方がええです。 色々写真撮って元がとれますよ! 以下高梁市観光協会様のHPより引用 江戸時代から大正時代まで操業した銅山を復元し、坑内を見学できるようにしたものです。冒険心をそそる神秘的な坑内は、年中15度前後と天然のエアコンが効いています。
吉岡(吹屋)銅山は、大同2年(807年)に発見されたと伝えられ、古書に備中の産物に関する記載があり、吹屋の銅山としての記録は、戦国時代尼子氏と毛利氏の争奪戦以来、江戸時代初期一時、成羽藩の支配下にありましたが、大部分の間は、天領幕府直轄地で代官の支配下で稼いでいました。
明治以降三菱金属(株)の経営となり、周りの小山を吸収合併し、自家発電所を設け、削岩機を使い精錬等の作業を機械化し、日本ではじめて洋式溶鉱炉を造り、日本三大鉱山の一つとなりました。
この鉱山は笹畝(ささうね)と称し、支山(しざん)でしたが、後年は地下で本坑道(坂本)と連絡し、黄銅鉱、磁硫鉄鉱(硫化鉄鉱)が産出されていました
特に、江戸時代には、この地から馬の背にのせて成羽町下原の総門まで運ばれ、高瀬舟に積んで玉島港まで行き、海路を利用して大阪の銅...
Read more夏の猛烈な日差しのもと、ここに来た。入り口に立つと涼しい風が吹いてくる。狭い坑道を少し進むとコンクリートから荒く削られた岩肌剥き出しのトンネルとなる。油断してヘルメットをコツンと天井や梁に打ちながら進むと広い空間に着く。上にも斜め下にも大きな空間が広がっている。これをノミとタガネで掘り抜き、蝋燭や松明の灯りで周囲を確認し、鉱石を手でかついで運び出したのかと思うと仕事のものすごさが腹にぐっとこたえてくる。 さらに少し進むと行き止まりにしてあった。あとは周りをぐるっと見て、出口に戻るだけである。 戻りがけ、この坑道が支鉱であり全体のごくごく僅かであることをパネルで見て、もっと下まで降りていた人の気持ちはどうだったのだろうと恐怖した。本坑は一体どんなのだったのかと更に思った。どこまで潜ったのだろうか。今も湧き出ている水はどうやって処理したのだろうか。 しかし、そのような所でも蛍光灯の灯りで植物が発生していること、腐っているであろう木材からキノコの一種が生えているのを見て又自...
Read more2024年2月23日に訪れました。
備中松山城の後に立ち寄りました。吹屋街道(県道85号)を通って行ったのですが、途中道幅が狭く40分くらいかかってしまいました。 帰りに分かったのですが、かぐら街道の方が道が良いようです。
小学1年女子、3年男子のこどもを連れていきましたが、探検気分でとても楽しんでいました。家族全員でヘルメットを着けて進みます。中にはたくさんのコウモリがすぐ目の前、いたるところ、たくさん逆さになってました。ホント捕まえられそうです。(怖くて絶対しませんが。。w) 壊れたトロッコもありました。坑道内の岩はキラキラと光っていて、またまだ鉱物がたくさん掘れそうな感じがしました。
また昔の人は、手掘りで暗い中を掘り進んで大変だったろうなと思いました。落盤や酸素が足りなくなったり、過酷な仕事だったのだと思います。
冬でしたが奥の方は暖かったです。 遠かったですが、とても見応えがありま...
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