西郷南洲流謫(るたく)跡 〒894-0321 鹿児島県大島郡龍郷町龍郷166
鹿児島県の歴史散歩(株式会社山川出版社)に 「浦から笠利(かさん)湾の西岸を約7km北上した本龍郷(たつごう)には、西郷南洲流謫(るたく)地(県史跡)がある。安政の大獄後、西郷隆盛が3年余りを生活したところである。その間、於戸間金(オトマガネ)=(愛加那(あいかな))を島妻にして1男1女をもうけた。復元修築された西郷の家がある。そばにユカリッチュ(由縁人・名望家・豪農)として知られる龍(りゅう)家の墓所があり、愛加那(あいかな)もここに眠っている。」と書かれている場所です。 2023年11月27日訪問することができました。 龍家の方が奥の居宅に居住しており、管理も龍家の方がされているようです。敷地内は有料・禁煙です。
●斉彬公への忠誠をつくす
斉彬と西郷 嘉永五(一八五二)伊集院兼寛の姉俊(とし)と結婚。七月に祖父、九月に父を、十月に母を亡くした。(二十五歳)西郷、大久保らが待ち望んでいた島津斉彬(なりあきら)は嘉永四年藩主となった。 安政元(一八五四)斉彬公が参勤のため江戸にのぼるとき、西郷青年は中小姓(ちゅうごしょう)としてともに江戸にのぼる。江戸に着いた翌月庭方役を命ぜられ、水戸藩との連絡にあたり藤田東湖の指導をうける。また、越前の橋本左内とも交る。 安政五(一八五八)斉彬死去。藩庁の月照(げっしょう)追放の無情をいきどおり月照と共に死を覚悟して、錦江湾に入水した。月照は死に西郷は助けられた。(三十一歳)
●南海の孤島で暮らす
孤島への幽囚 潜居のため奄美大島竜郷(たつごう)へ渡航した。 安政六(一八五九)大島替居は三年つづき、その間島の娘、愛加那(あいかな)と結婚し、二人の子供菊次郎、菊草(のち菊子)が生まれた。 文久二(一八六二)鹿児島にもどり庭方役に復職し、島津久光が薩摩の精兵をひきいて公武合体運動をするのにさきがけて出発し下関で久光を待ち合わせることになる。下関に着いた西郷は、京阪の情勢が急であるため上方に向った。 同年...
Read more2023年10月30日に見学しました。 安政5年1858年に月照らの協力を得て、一橋慶喜継嗣のための内勅を得ようと西郷隆盛は奔走しました。残念ながら、その企図は、失敗に終わります。そうこうしているうちに彦根藩主井伊直弼が大老に就任し、紀州藩主徳川慶福(家茂)を将軍継嗣に決定してしまいます。その後、一橋慶喜を押した一派の弾圧が開始されました。世にいう安政の大獄です。その最中に薩摩藩主島津斉彬が急逝しました。庇護者を失った西郷隆盛や月照らは、幕府から追われる身となります。西郷隆盛は、月照を鹿児島へ逃しましたが、幕府の追及を恐れた薩摩藩は、月照を東目(日向国)へ追放することにしてしまいます。内実は、道中で斬り捨てにするという下知でした。将来を悲観した西郷隆盛と月照は、錦江湾に入水自殺を図ります。西郷隆盛は、救助されて一命を取り止めましたが、月照は、助かりませんでした。 薩摩藩は、幕府の追及を逃れるために二人とも死んだことにしたのです。 安政6年1859年、西郷隆盛は、菊池源吾と変名して奄美大島へ潜居することになりました。屋入銅山を管理していた田畑氏(龍氏)との縁で、とま(愛加那)を島妻として迎えました。菊次郎と菊草(菊子)の二人の子を授かりました。この家で暮らしていましたが、文久2年1862年に島津久光から鹿児島へ呼び戻されることとなり、奄美大島を離れました。 案内してくださった年配の方は、縁者の方で、大変詳しく...
Read more2023年7月に訪問 西郷さんが島流しされている間にどんな生活を送っていたのかとても興味があり、奄美大島訪問の一つの目的地でした 敷地内に入ると、すぐに管理人のお爺さん(龍家のご子孫のようです)が出てきて、マスク着用を求められます たまたま持ち合わせていなかったのでハンカチを口に当てるのでよろしいかと聞きましたが、マスクでなければ入らないでくれとのことでした 器官が弱いとのことで、コロナ対策を非常に気にしているようです マスクが無ければ入れないという事は絶対に曲げることはなさそうで、仕方なく外観だけでもと思って少し眺めていると、マスクをしないなら敷地から出てくれと言われてしまいました 楽しみにしていただけに、非常に残念でした 町役場にも大きな看板が出ていたり、おそらく多少なりとも補助金も出ているのではないかと推察しますが、寂しい気持ちにさせられる経験でした ぜひ見たいと思う方は、観光地として伺うと調子が違うという事と、必ずマスクをお持ちになるようお気を付けください
なお、この場所から少し北方向に行った当たりの海岸線が、とてもきれいでした 奄美旅行中に見た海で一番きれいと思いましたので、少し足を伸ば...
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