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Matsuo Castle Ruins — Attraction in Toho

Name
Matsuo Castle Ruins
Description
Nearby attractions
Roadside station Koishiwara
941番地3 Koishiwara, Toho Village, Asakura District, Fukuoka 838-1601, Japan
Nearby restaurants
レストラン こだち(道の駅 小石原)
941-3 Koishiwara, Toho Village, Asakura District, Fukuoka 838-1601, Japan
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Matsuo Castle Ruins
JapanFukuoka PrefectureTohoMatsuo Castle Ruins

Basic Info

Matsuo Castle Ruins

Koishiwara, Toho Village, Asakura District, Fukuoka 838-1601, Japan
3.8(29)
Open 24 hours
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spot

Ratings & Description

Info

Cultural
Outdoor
Scenic
Off the beaten path
attractions: Roadside station Koishiwara, restaurants: レストラン こだち(道の駅 小石原)
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Reviews

Nearby attractions of Matsuo Castle Ruins

Roadside station Koishiwara

Roadside station Koishiwara

Roadside station Koishiwara

3.6

(1.5K)

Open 24 hours
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Things to do nearby

Experience at a mountain brewery 
Sake tasting & brewery tour
Experience at a mountain brewery Sake tasting & brewery tour
Mon, Jan 5 • 9:00 AM
830-1125, Fukuoka, Kurume, Japan
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Nearby restaurants of Matsuo Castle Ruins

レストラン こだち(道の駅 小石原)

レストラン こだち(道の駅 小石原)

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3.5

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Reviews of Matsuo Castle Ruins

3.8
(29)
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5.0
43w

松尾城は福岡県と大分県の県境の小石川にある。

戦国時代は秋月氏の城で豊後の大友氏との激戦区だったと思われる。 豊臣秀吉の九州征伐で秋月氏が秀吉に臣従すると、松尾城は筑前を与えられた小早川家の支城となり、関ヶ原の合戦の後は小早川家の領地をまるっと与えられた黒田長政の支配下に入る。 この時、長政は豊前中津18万石から筑前52万石に移ったわけだが、移封する際にその時の豊前中津の年貢を全て取り立ててから筑前に移った。怒ったのは豊前に移封された細川忠興だ。豊前40万石のうち、半分近い18万石分の年貢を持っていかれたことになるから当然だ。 移封する際は年貢を遺して移封するというのが当時の暗黙の了解だったが、移封先が年貢を持っていってしまった場合などは移封前の領地の年貢を取り立ててから移封するというのはたびたび行われていたようだ。 筑前は小早川が年貢を持ち去っていたので、長政としても仕方なかったのだろうが、細川としてはたまったものではない。これが黒田家と細川家の不仲のきっかけとなり、その後、年貢の取り立ての厳しい黒田領から、年貢の取り立ての緩やかな細川領に農民が逃げ込む事態が頻発し、今度は黒田が返せといっても細川は応じず、これで二人の仲は決定的になったという。

黒田長政は豊前細川家を仮想敵国とし、豊前との国境6城の防備を固めた。これが筑前六端城と呼ばれる城で、松尾城はそのなかのひとつだ。 そして六端城のひとつ、益富城を防備していた後藤又兵衛が長政との不仲が原因で出奔し、細川家に身を寄せたことで、短期で短慮な長政はさらにヒートアップしてゆく。

松尾城を与えられたのは、中間六郎右衛門統胤。長政が豊前を治めている際に発生した宇都宮鎮房の反乱に荷担していたが、途中で黒田孝高の説得に応じて帰順した武将だ。他の5城が黒田家の重臣で固められているので大抜擢といえるだろう。 ただ、結局というか当然というか、細川との全面戦争など起きず、1615年の一国一城令によって筑前六端城は全て廃棄されてしう。

ちなみに、黒田領の年貢の取り立てが厳しかったのは有名だったようで、元々、小早川が筑前を治めていた時の石高は30万石だった。それをまるまる引き継いだ黒田長政が52万石になったのは、それだけ年貢を多く取ったからだと言われている。 黒田家の年貢割合が厳しいので、農民はこぞって細川領に逃げたわけだ。それは幕末まで続いたようで、追い打ちを掛けたのが、1835年から1837年にかけて起こった享保の大飢饉だ。 瀬戸内を中心にして西日本全体で被害を被った大飢饉だが、この時、黒田家は6代藩主・継高の時代。黒田家の中では名君と呼ばれる数少ない人物だが、「福岡県史」によれば、福岡藩は全人口の20%にあたる7~8万人が餓死したとある。そして、餓死したのが全て農民なのは、幕府からの救済米を全て家臣に与えて農民には1粒たりとも分け与えなかったからと言われている。 黒田家は長政以降、彼の吝嗇さと短慮さだけが受け継がれたような気がする。

初めて福岡城を訪問した際、公園になってる城跡の汚さに驚いたのを覚えている。 福岡市民は黒田家にあんまりいい印象を持ってないのかなあとその時は漠然と考えていたが、たぶん、...

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5.0
7y

城とはあるが今目にする城ではない。舘と言ったほうが相応しいであろう。これを見るに城の周囲は完全防備である。時代の移り変わりと言うものはさぞや厳しかったであろう。 小山の頂上にそれはある。素晴しく見晴らしがよい。まるで天空の城である。ただ、城主はこの麓に住んでいたのである。さぞや家来は登城するのが嫌だったろうな。この山城は山上に築かれた砦の様に見える。複雑な形ではなく長方形で真ん中に張り出しが設けられている。崖側には櫓の基礎がある。ここまで登ってきた甲斐があったというものであった。山の稜線が気持ちよく冷たい風が汗ばんだ顔に当って心地好い。斜面は急である。当然に下から敵が攻めると言うのは殆ど不可能であろう。ただ周りを固めておけば兵糧攻めで時間をかけて落とすことは出来るかもしれない。周囲はそんなに広...

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5.0
6y

麓に整備された綺麗な駐車場から、少し山道をクネクネと登ると、杉林が拓けて城跡の石垣が見えてきます。整備されてよく見える部分はおおよそ南北30m、東西60mの範囲の主郭のみですが、しっかりと積まれた野面積みの石垣、礎石建物の痕跡が近世城郭の名残を残しています。一国一城令後破城され、発掘調査時は広範囲は崩れた状態だったようですが、発掘調査後、一部を除いて石垣をある程度復元整備され、ちゃんとその表示もしてあります。曲輪の周りには、南北に畝状空堀(畝状竪堀)東に堀切群があり、よく観察すれば見ることができます。 城跡の整備区画内(駐車場を含む)にお手洗い等はないので、近くの道の駅...

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フルフラットフルフラット
松尾城は福岡県と大分県の県境の小石川にある。 戦国時代は秋月氏の城で豊後の大友氏との激戦区だったと思われる。 豊臣秀吉の九州征伐で秋月氏が秀吉に臣従すると、松尾城は筑前を与えられた小早川家の支城となり、関ヶ原の合戦の後は小早川家の領地をまるっと与えられた黒田長政の支配下に入る。 この時、長政は豊前中津18万石から筑前52万石に移ったわけだが、移封する際にその時の豊前中津の年貢を全て取り立ててから筑前に移った。怒ったのは豊前に移封された細川忠興だ。豊前40万石のうち、半分近い18万石分の年貢を持っていかれたことになるから当然だ。 移封する際は年貢を遺して移封するというのが当時の暗黙の了解だったが、移封先が年貢を持っていってしまった場合などは移封前の領地の年貢を取り立ててから移封するというのはたびたび行われていたようだ。 筑前は小早川が年貢を持ち去っていたので、長政としても仕方なかったのだろうが、細川としてはたまったものではない。これが黒田家と細川家の不仲のきっかけとなり、その後、年貢の取り立ての厳しい黒田領から、年貢の取り立ての緩やかな細川領に農民が逃げ込む事態が頻発し、今度は黒田が返せといっても細川は応じず、これで二人の仲は決定的になったという。 黒田長政は豊前細川家を仮想敵国とし、豊前との国境6城の防備を固めた。これが筑前六端城と呼ばれる城で、松尾城はそのなかのひとつだ。 そして六端城のひとつ、益富城を防備していた後藤又兵衛が長政との不仲が原因で出奔し、細川家に身を寄せたことで、短期で短慮な長政はさらにヒートアップしてゆく。 松尾城を与えられたのは、中間六郎右衛門統胤。長政が豊前を治めている際に発生した宇都宮鎮房の反乱に荷担していたが、途中で黒田孝高の説得に応じて帰順した武将だ。他の5城が黒田家の重臣で固められているので大抜擢といえるだろう。 ただ、結局というか当然というか、細川との全面戦争など起きず、1615年の一国一城令によって筑前六端城は全て廃棄されてしう。 ちなみに、黒田領の年貢の取り立てが厳しかったのは有名だったようで、元々、小早川が筑前を治めていた時の石高は30万石だった。それをまるまる引き継いだ黒田長政が52万石になったのは、それだけ年貢を多く取ったからだと言われている。 黒田家の年貢割合が厳しいので、農民はこぞって細川領に逃げたわけだ。それは幕末まで続いたようで、追い打ちを掛けたのが、1835年から1837年にかけて起こった享保の大飢饉だ。 瀬戸内を中心にして西日本全体で被害を被った大飢饉だが、この時、黒田家は6代藩主・継高の時代。黒田家の中では名君と呼ばれる数少ない人物だが、「福岡県史」によれば、福岡藩は全人口の20%にあたる7~8万人が餓死したとある。そして、餓死したのが全て農民なのは、幕府からの救済米を全て家臣に与えて農民には1粒たりとも分け与えなかったからと言われている。 黒田家は長政以降、彼の吝嗇さと短慮さだけが受け継がれたような気がする。 初めて福岡城を訪問した際、公園になってる城跡の汚さに驚いたのを覚えている。 福岡市民は黒田家にあんまりいい印象を持ってないのかなあとその時は漠然と考えていたが、たぶん、その通りだったんだろう。
刃連じろう刃連じろう
麓に整備された綺麗な駐車場から、少し山道をクネクネと登ると、杉林が拓けて城跡の石垣が見えてきます。整備されてよく見える部分はおおよそ南北30m、東西60mの範囲の主郭のみですが、しっかりと積まれた野面積みの石垣、礎石建物の痕跡が近世城郭の名残を残しています。一国一城令後破城され、発掘調査時は広範囲は崩れた状態だったようですが、発掘調査後、一部を除いて石垣をある程度復元整備され、ちゃんとその表示もしてあります。曲輪の周りには、南北に畝状空堀(畝状竪堀)東に堀切群があり、よく観察すれば見ることができます。 城跡の整備区画内(駐車場を含む)にお手洗い等はないので、近くの道の駅まで行く必要があります。
肥後biker肥後biker
福岡藩初代藩主・黒田長政によって築城された筑前六端城の1つです。 他の5つの城と共に反目していた細川忠興が治めていた隣国・豊前国境線に沿って築城され、中間統胤が城主を務めていました。 他の5城は黒田二十四騎と呼ばれる譜代家臣の精鋭が城主でしたが、中間統胤は二十四騎でもなければ新参の家臣であったにも関わらず城主に抜擢されています。 城跡は山城であったため、だいぶ登る上に道幅も狭く気を付けて歩かないと斜面から落ちてしまうほど狭いので注意が必要です。 私が訪れた際は雑草が生い茂り、先に進むのも苦労しましたが石垣はそこそこ遺っており往時を偲ぶことが出来ます。
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松尾城は福岡県と大分県の県境の小石川にある。 戦国時代は秋月氏の城で豊後の大友氏との激戦区だったと思われる。 豊臣秀吉の九州征伐で秋月氏が秀吉に臣従すると、松尾城は筑前を与えられた小早川家の支城となり、関ヶ原の合戦の後は小早川家の領地をまるっと与えられた黒田長政の支配下に入る。 この時、長政は豊前中津18万石から筑前52万石に移ったわけだが、移封する際にその時の豊前中津の年貢を全て取り立ててから筑前に移った。怒ったのは豊前に移封された細川忠興だ。豊前40万石のうち、半分近い18万石分の年貢を持っていかれたことになるから当然だ。 移封する際は年貢を遺して移封するというのが当時の暗黙の了解だったが、移封先が年貢を持っていってしまった場合などは移封前の領地の年貢を取り立ててから移封するというのはたびたび行われていたようだ。 筑前は小早川が年貢を持ち去っていたので、長政としても仕方なかったのだろうが、細川としてはたまったものではない。これが黒田家と細川家の不仲のきっかけとなり、その後、年貢の取り立ての厳しい黒田領から、年貢の取り立ての緩やかな細川領に農民が逃げ込む事態が頻発し、今度は黒田が返せといっても細川は応じず、これで二人の仲は決定的になったという。 黒田長政は豊前細川家を仮想敵国とし、豊前との国境6城の防備を固めた。これが筑前六端城と呼ばれる城で、松尾城はそのなかのひとつだ。 そして六端城のひとつ、益富城を防備していた後藤又兵衛が長政との不仲が原因で出奔し、細川家に身を寄せたことで、短期で短慮な長政はさらにヒートアップしてゆく。 松尾城を与えられたのは、中間六郎右衛門統胤。長政が豊前を治めている際に発生した宇都宮鎮房の反乱に荷担していたが、途中で黒田孝高の説得に応じて帰順した武将だ。他の5城が黒田家の重臣で固められているので大抜擢といえるだろう。 ただ、結局というか当然というか、細川との全面戦争など起きず、1615年の一国一城令によって筑前六端城は全て廃棄されてしう。 ちなみに、黒田領の年貢の取り立てが厳しかったのは有名だったようで、元々、小早川が筑前を治めていた時の石高は30万石だった。それをまるまる引き継いだ黒田長政が52万石になったのは、それだけ年貢を多く取ったからだと言われている。 黒田家の年貢割合が厳しいので、農民はこぞって細川領に逃げたわけだ。それは幕末まで続いたようで、追い打ちを掛けたのが、1835年から1837年にかけて起こった享保の大飢饉だ。 瀬戸内を中心にして西日本全体で被害を被った大飢饉だが、この時、黒田家は6代藩主・継高の時代。黒田家の中では名君と呼ばれる数少ない人物だが、「福岡県史」によれば、福岡藩は全人口の20%にあたる7~8万人が餓死したとある。そして、餓死したのが全て農民なのは、幕府からの救済米を全て家臣に与えて農民には1粒たりとも分け与えなかったからと言われている。 黒田家は長政以降、彼の吝嗇さと短慮さだけが受け継がれたような気がする。 初めて福岡城を訪問した際、公園になってる城跡の汚さに驚いたのを覚えている。 福岡市民は黒田家にあんまりいい印象を持ってないのかなあとその時は漠然と考えていたが、たぶん、その通りだったんだろう。
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福岡藩初代藩主・黒田長政によって築城された筑前六端城の1つです。 他の5つの城と共に反目していた細川忠興が治めていた隣国・豊前国境線に沿って築城され、中間統胤が城主を務めていました。 他の5城は黒田二十四騎と呼ばれる譜代家臣の精鋭が城主でしたが、中間統胤は二十四騎でもなければ新参の家臣であったにも関わらず城主に抜擢されています。 城跡は山城であったため、だいぶ登る上に道幅も狭く気を付けて歩かないと斜面から落ちてしまうほど狭いので注意が必要です。 私が訪れた際は雑草が生い茂り、先に進むのも苦労しましたが石垣はそこそこ遺っており往時を偲ぶことが出来ます。
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