松尾城は福岡県と大分県の県境の小石川にある。
戦国時代は秋月氏の城で豊後の大友氏との激戦区だったと思われる。 豊臣秀吉の九州征伐で秋月氏が秀吉に臣従すると、松尾城は筑前を与えられた小早川家の支城となり、関ヶ原の合戦の後は小早川家の領地をまるっと与えられた黒田長政の支配下に入る。 この時、長政は豊前中津18万石から筑前52万石に移ったわけだが、移封する際にその時の豊前中津の年貢を全て取り立ててから筑前に移った。怒ったのは豊前に移封された細川忠興だ。豊前40万石のうち、半分近い18万石分の年貢を持っていかれたことになるから当然だ。 移封する際は年貢を遺して移封するというのが当時の暗黙の了解だったが、移封先が年貢を持っていってしまった場合などは移封前の領地の年貢を取り立ててから移封するというのはたびたび行われていたようだ。 筑前は小早川が年貢を持ち去っていたので、長政としても仕方なかったのだろうが、細川としてはたまったものではない。これが黒田家と細川家の不仲のきっかけとなり、その後、年貢の取り立ての厳しい黒田領から、年貢の取り立ての緩やかな細川領に農民が逃げ込む事態が頻発し、今度は黒田が返せといっても細川は応じず、これで二人の仲は決定的になったという。
黒田長政は豊前細川家を仮想敵国とし、豊前との国境6城の防備を固めた。これが筑前六端城と呼ばれる城で、松尾城はそのなかのひとつだ。 そして六端城のひとつ、益富城を防備していた後藤又兵衛が長政との不仲が原因で出奔し、細川家に身を寄せたことで、短期で短慮な長政はさらにヒートアップしてゆく。
松尾城を与えられたのは、中間六郎右衛門統胤。長政が豊前を治めている際に発生した宇都宮鎮房の反乱に荷担していたが、途中で黒田孝高の説得に応じて帰順した武将だ。他の5城が黒田家の重臣で固められているので大抜擢といえるだろう。 ただ、結局というか当然というか、細川との全面戦争など起きず、1615年の一国一城令によって筑前六端城は全て廃棄されてしう。
ちなみに、黒田領の年貢の取り立てが厳しかったのは有名だったようで、元々、小早川が筑前を治めていた時の石高は30万石だった。それをまるまる引き継いだ黒田長政が52万石になったのは、それだけ年貢を多く取ったからだと言われている。 黒田家の年貢割合が厳しいので、農民はこぞって細川領に逃げたわけだ。それは幕末まで続いたようで、追い打ちを掛けたのが、1835年から1837年にかけて起こった享保の大飢饉だ。 瀬戸内を中心にして西日本全体で被害を被った大飢饉だが、この時、黒田家は6代藩主・継高の時代。黒田家の中では名君と呼ばれる数少ない人物だが、「福岡県史」によれば、福岡藩は全人口の20%にあたる7~8万人が餓死したとある。そして、餓死したのが全て農民なのは、幕府からの救済米を全て家臣に与えて農民には1粒たりとも分け与えなかったからと言われている。 黒田家は長政以降、彼の吝嗇さと短慮さだけが受け継がれたような気がする。
初めて福岡城を訪問した際、公園になってる城跡の汚さに驚いたのを覚えている。 福岡市民は黒田家にあんまりいい印象を持ってないのかなあとその時は漠然と考えていたが、たぶん、...
Read more城とはあるが今目にする城ではない。舘と言ったほうが相応しいであろう。これを見るに城の周囲は完全防備である。時代の移り変わりと言うものはさぞや厳しかったであろう。 小山の頂上にそれはある。素晴しく見晴らしがよい。まるで天空の城である。ただ、城主はこの麓に住んでいたのである。さぞや家来は登城するのが嫌だったろうな。この山城は山上に築かれた砦の様に見える。複雑な形ではなく長方形で真ん中に張り出しが設けられている。崖側には櫓の基礎がある。ここまで登ってきた甲斐があったというものであった。山の稜線が気持ちよく冷たい風が汗ばんだ顔に当って心地好い。斜面は急である。当然に下から敵が攻めると言うのは殆ど不可能であろう。ただ周りを固めておけば兵糧攻めで時間をかけて落とすことは出来るかもしれない。周囲はそんなに広...
Read more麓に整備された綺麗な駐車場から、少し山道をクネクネと登ると、杉林が拓けて城跡の石垣が見えてきます。整備されてよく見える部分はおおよそ南北30m、東西60mの範囲の主郭のみですが、しっかりと積まれた野面積みの石垣、礎石建物の痕跡が近世城郭の名残を残しています。一国一城令後破城され、発掘調査時は広範囲は崩れた状態だったようですが、発掘調査後、一部を除いて石垣をある程度復元整備され、ちゃんとその表示もしてあります。曲輪の周りには、南北に畝状空堀(畝状竪堀)東に堀切群があり、よく観察すれば見ることができます。 城跡の整備区画内(駐車場を含む)にお手洗い等はないので、近くの道の駅...
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