国民作家「吉川英治(よしかわえいじ)」が誕生したのは、全く偶然によるものなのです。モノの本には1925年(大正14)創刊の大衆娯楽雑誌「キング」から、このペンネームを使い始めたとありますが、決して本人の意図したものではなく、本名の吉川英次(よしかわひでつぐ)を出版社が誤植してしまった事によるのですよ(笑)。
本人が気に入って訂正することもなく、そのまま使い続けたという事ですが、それまで懸賞小説や文芸誌の投稿に何度も入選して才能が認めながらも中々表に出ることが出来なかった「英次」が、これ以降は「鳴門秘帖」「宮本武蔵」等の傑作を次々発表し国民作家としての名声を確立させるに至るのですから、実はこの「英治」は神様が与えてくれた名前だったのかもしれません(笑)。
さて、この記念館は一躍人気作家となった英治が、太平洋戦争中の1944年に家族と共に疎開先として越してきた場所です。日当たりが良く暖かそうな縁側を持つ、元は養蚕農家だった母屋と、一時期は書斎として使っていた和洋折衷の凝った造作を持つ離れから成り立っています。
ちなみにこの離れは遮音性が高く、執筆に集中できるのは良いのですが直ぐに使われなくなってしまいました。何故なら同時に母家にいる妻にお茶や食事をお願いしても、何も聞こえなくなってしまったからです(笑)。また青梅の冬は底冷えがして、離れはいくら暖房しても耐え難い寒さになったそうです。なるほど、窓が小さくて暗く、床も寒そうではあります。 そのため、その後はサンルームのように暖かくて明るい母屋の南角にテーブルと資料を置いて、執筆の場としていたとのことです。
ワタシはココが平成31年に閉館になると聞いて慌てて見に行ったのですが、その後の扱いがどうなるのか心配していました。幸にして土地建物と資料一式は青梅市に一括して寄贈され、資産は売却による散逸を免れる事が出来て何よりでした。令和2年に再オープンして今に至ります。
閉館の原因は来館者の減少によるものだそうですが、疎開先になるぐらいですから何かのついでに寄れる場所でもなく、実際に英治が在住していた頃は編集者がここまで原稿を取りに来るのが大変だったそうです。 今後は地方公共団体がスポンサーにな...
Read moreIt's a cool little museum in the outskirts of Ōme. However, it is closing permanently after March 20. The city and Yoshikawa estate have found the costs to maintain it as a city museum slightly high. If you can get out to see it, and literary museums are your thing; its well worth it's ¥500...
Read more歴史的人物を題材に日本人の心をしっかりつかみ、夢中にさせる小説を多数著わし、国民的作家として名高い吉川英治が大戦末期から疎開するように移住して10年近く住んだ所です。 温かみのある人物描写から、平穏な育ちだろうと思い込んでいましたが、展示室の年表を見て驚きました。 家庭や家業の難事で小学校も卒業できず、生活のために職を転々として、工場の労災で重傷を負い、中国に渡るなどもしながら作家として成功するまでの人生はまさに波瀾万丈です。 川柳に打ち込んだ時期があったそうですが、その影響もあって物事を深刻に捉えすぎないのも良かったのではないかと勝手に考えています。写真も笑顔のものが多いように思います。 昔の出版物の展示を見ると、先ず活字が小さいのが気になります。紙質も悪く、印刷も鮮明ではありません。これを読みこなした昔の人は偉かったと思います。また色々な写真は誰もかれも何処ででもタバコを手にしているものが多く、時代を感じます。吉川英治氏は肺がんで1962年に亡くなられました。 超長編・大作が多いですが、読み始めると止められなくなる面白さは、頭だけではない実体験の豊富さからも生まれたのだと思います。 1977年に開館し、最盛期は一日で4千人以上が来館したそうです。 母屋は元々は養蚕農家の屋敷です。書斎は洋風ですが、これも元の持ち主が茶室として建てたものだそうです。代表作の宮本武蔵はバガボンドの原作として若い新しい読者を得ていますが、嘗て夢中になった世代は高齢化し、印刷物離れの時代になって、今までのような運営は難しくなったようです。2019年3月で閉館となりました。 その後記念館は青梅市に寄付されて、2020年9月より新たに公開されることになりました。以前は外から見るだけだった母屋の...
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