南北朝時代の築城です。 戦国時代は越後守護代である神保氏の重要拠点となっていました。戦国時代、越中は神保氏、椎名氏、能登畠山氏、越後上杉氏、一向一揆、織田氏が入り乱れての乱戦となっていました。 そういった情勢の中増山城は越中三大山城の一つとして神保氏の重要な拠点として機能していました。 しかし長い戦乱の中で上杉氏に二度、織田氏に一度、開城・落城させられています。
増山城は和田川を天然の堀とし山一つを城郭として普請されています。 立地は砺波平野の北側の山裾となっています。 周辺には支城も数多く作られていて一つの城郭として機能しています。 奥行きは深く無数の曲輪が作られています。 大手から高所までの比肩は90メートルほどです。
増山城のある山ですが険しいというわけではありません。個々の曲輪は高い切り堀と土塁により囲まれていて、その周囲に横矢がかかるように通路が設けられています。 しかし3度落城させられていることからもわかるように、鉄壁という程のものではありません。 虎口に馬出しなどが取り入れられておらず、防御力が不足している、規模が大きすぎて一守護代が守るには荷が重すぎるといった事が考えられます。 戦国末期に何度も落城させられていることを考えると攻城技術の進歩に付いて行けていなかったという事も考えられます。
現在の増山城ですが、非常に綺麗に管理されています。麓の資料館にはパンフレットや研究成果の展示がなされています。 城内の通路や主だった曲輪は下草がきちんと刈られており大変見学がしやすくなっています。
増山城は歴史のメイン舞台に上がるほどの活躍はしていませんが、中世山城というものを見てみたい人には非常...
Read more越中の豪族神保氏が築いたとされる山城。 越中国では戦国初期、神保、椎名、遊佐の三家が争う激戦地帯であった。 加賀の冨樫氏を倒した一向一揆衆が次第に越中へ圧力をかけるようになっていき、ついに遊佐氏は能登畠山氏へのへの亡命を余儀なくされた。 越中西部の瑞泉寺をはじめ、一向一揆は越中でもどんどんと拡大していった。 そんななかでも神保氏は椎名氏と新川郡を求めて戦を続け、婦負郡らを制圧した。 だが、神保氏は越後の長尾氏を後ろ盾にした椎名氏に苦戦。結果神保氏も椎名氏も長尾氏の下に下り、その後越中は長尾景虎が統治した。 その後長尾景虎改め上杉謙信が没すると上杉家の後継者争いである御館の乱が勃発。 勝利した上杉景勝が家督を継いだが家臣たちをまとめられずその隙に柴田勝家率いる数万の織田軍が越中に侵攻。 富山、増山などを次々と落としていき、魚津城を占拠して織田軍は自国へ戻った。(魚津城の戦い) 織田領になると佐々成政が越中を治めた。 本能寺の変で織田信長が亡くなると佐々成政は柴田勝家とともに羽柴秀吉と対立。 賤ヶ岳で柴田勝家は敗れ、北ノ庄城でついに自害。 佐々成政はそれでも秀吉に従わず抗戦の構えを見せた。 結果羽柴秀吉は佐々領へ侵攻したが佐々成政はここであっさりと降伏。(富山の役) その後加賀、能登を治めていた前田利家のもとに越中も入った。その後は前田家臣が入り以後富山藩の食糧、武器庫の役割として増山城は使われたという。 この城は大きな曲輪が乱立しており、いたるところで曲輪が見られる。 本丸に近づくにつれて道は複雑になっていく。 本丸には天守台の跡も残り見応えある山城だ。 所要時間はじっくり見ておよそ1時間半〜2時間...
Read more◯増山城跡 国指定史跡
増山城跡は富山県西部に展開する栃波平野東縁、標高120メールの丘陵上に立地し、平野全体を眼下におさめる大規模な中世山城である。城の西側に蛇行して流れ、深い谷を形成する和田川の対岸には城下町(増田遺跡)がある。
増山城の歴史
前期 1362年 二宮円阿が和田城を守る 田屋川原の合戦
神保期 城域拡張 1506年 芹合合戦(一向一揆 vs 神保•長尾軍) 1543年 長職が富山城築城 長職の台頭
上杉期 空堀掘削 1560年 長尾景虎が越中出兵 (増山城攻略) 1562年 上杉照虎が神保征伐 (増山城攻略) 1576年 上杉謙信が七尾侵攻 (増山城攻略) 謙信の死
佐々期 整備拡張 1581年 織田勢が増山城を攻略 1585年 成政が城普請。秀吉に降伏 秀吉の天下統一
前田期 城下町整備 1585年...
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